9月26日

2015年11月17日

この時期のスリランカは北東は乾期で、南西部は雨期。朝も食事中、とんでもない横殴りの雨が降り、ボーイたちがあわてて窓のビニールカーテンを降ろす。泊まった3つのなかで、このライトハウスはジェットウィングというチェーン系列で、そこの管理がよく、きれいに維持されているがそのぶん、改修されて、もの寂びた感じが失せている。ゆっくり行きたいところだがそうも行かない。世界遺産の城壁の町ゴール見学。バワの設計した大学見学。アーユルベーダののち空港へ。
これがまずい。体中が活性化して眠れない。一晩むずむず症候群と闘い、自分を持て余した。飛行機に乗るこつは事前に体をいじらず、食べず、飲まずだ。

9月25日

2015年11月17日

朝、パヴィさんが、ホテルの朝食は高いから、家に行ってカレーを取ってくると言い出す。意味がよくわからなかったが、家はここからわりと近いのだとか。好奇心を起こし、トクトクに乗って一緒に行く。本当に村のなかの家だった。携帯で頼んであった、お母さん特製のカレー二種とご飯、パンを買って帰る。みんな喜ぶ。こんな融通無碍な感じがスリランカのみならず、アジアにはまだあり、管理社会の日本と違う。この日はのんびりして、バワの別荘を見に行く。美しい家と庭。水田や畑もある。それを見るのが好きだった。盆栽に凝って、枝を曲げた木もあった。彼はゲイだったそうで、妻や子どもはいないらしい。昼過ぎにゴールのライトハウスホテル(バワ設計)へ。そして2003年のスマトラ沖地震の後をNGOの人の案内で見て歩く。そのうち豪雨になる。

9月24日

2015年11月17日

泊まったホテルは安宿だが清潔で、雨が上がった後のきらきらした光。最高。9時にちゃんとむかえに来た。しかしそこからコロンボを通ってシンハラジャの世界遺産の森までがたいへん。途中で山本先生の大学院に今度入るパビットラさんをピックアップ。ついたのが1時過ぎでそこからジープに乗り換え、またがたごと1時間するとゲート、数学の学校の生徒がたくさんいて、女性とはみんな長い髪の毛。そこからジープでゴトゴト道を上がり、そこからまたに2時間ほど森を歩いた。昼は車の中、夕食を終えベントータビーチホテル(バワ設計)についたのは9時頃。
パビさんと私は同室になった。お父さん、お母さんは小さなブティック経営、弟と妹のいる28歳。
彼女はキャンディのよい大学を出て、木材会社に勤めた。スリランカは発展途上国。女性は大学に50パーセント以上いるがだいたい、家庭に入ってしまう。日本語はまったくできない。
しかし夜、必要な10くらいの言葉を教えると、直ぐに覚えた。ありがとう、今日は、おはよう、さようなら、ごめんなさい、どうぞ、大丈夫、いくら? 高い、安い。でも日本は値切らないで現金正価で買う事、と教える。
28歳にしては堂々としているし、あまり怖じけずに、でも親切に私の写真を撮ってくれようとしたり、部屋では邪魔したという自覚があるのか、隅っこが好きなの、とエクストラベッドで寝たり、紅茶やコーヒーを入れてくれたり気を使う。
大学は全国に3つしかなく、行くのは5パーセントくらい。つまり彼女はとても優秀なのだ。

9月23日

2015年11月17日

朝は6時に起きて、ホテルの中を探検。バワは1918年生まれで、最初ケンブリッッジで英文学を学び、それから弁護士になり、38歳で建築家になったとか。国会議事堂も彼の作品。これは建って24年で、わりと後期の作品。はじからはじまで1キロあり、スリランカで一番長いホテル。それでも客室は150もなく、ゆったりしている。プールは三つ。2階のを見に行ったが、猿の群れがいてとても入る気になれない。7階のに入る。
今日は伊東忠太が訪ねたナランダの寺院を見る。誰も居ないが大変すばらしかった。それからヤシの実工芸のアーティストの家。スパイス工場、紅茶の工場、仏像や宝石、家具の店など運転手さんの案内で見て歩く。
頭に塗ると毛によく、目にも利く、ココナツオイル。レモングラスの虫除けスプレー、サンダルウッドのしみしわよけ顔に塗るものなどを買った。だまされているようでもあるが、欲しかったもの。
昼間はベジタブルライス。鳥のカレー、エビのカレー。ビール。とても庶民的な店でクマちゃん、喜ぶ。
午後はキャンディにいく。シンハラ王朝の都の世界遺産。しかし町中は渋滞で車を止められず、車でぐるっとまわる。植民地時代の様式の建物がたくさんある。後藤さんを空港に送ってネガンボ泊。 

9月22日

2015年11月17日

朝、起きたらホテルの裏がものすごいビーチだった。そこでヤシの葉蔭で朝寝。オパール色の海。浜辺を掃除している男に「ここにも津波が来たんですよね。というと、ニコニコしながら話してくれた。「ここはあまり被害がなくて5メートルくらい、木の家は胸まで水が来た。その時は27歳だった。それでも二人船に乗った男が内陸まで運ばれていろんなものにぶつかって死んだ。波はすべてのものをさらっていった。ほかの浜では2000人も死んだ」といいながらそのうち、顔が歪んで手で目を多い、泣き出した。「ごめんねもう思い出さないでいいよ」「でも毎朝、掃除しながら沖の方を見ているよ。また津波が来ないかって。怖いよ」とのこと。この日、メインイベントは世界遺産シーギリアの岩登り。昔、バカな王様がいて100メートルほどの岩の上に王宮を築いた。その水のシステムがすごい。上でダンスを踊ったり、いろいろした。迷惑な話。午後も世界遺産のゴールデンテンプルを見に行く。心落ち着くいいお寺だった。カンダラマホテル(バワ設計)へ。草原にまるでこぼれ落ちるようなプールがあった。

9月21日

2015年11月17日

庭で朝食。若者がするすると椰子の木に昇り、ココヤシを取ってくる。
フルーツで一杯の食卓。使用人かとおもえたおじいさんが主人で、もと映画俳優だとか。骨董のコレクションを見せてくれる。
そこから北東海岸のトリンコマレまでが遠い。途中アーユルベーダによる。シロダーラをふくむアーユルベーダ。2時間で8000ルピーが7000ルピーになり、52ドルになる。やせたおばあさんのような女性にやってもらう。よもぎ蒸し。石のサウナ。スリランカで有名なシロダーラとは額に温かい油をたらし、頭のゆがみを取り、リラックスをさせる。熱いのが注がれたらどうしよう、この素焼きのつぼが頭の上に落ちてきたらどうしよう、などとリラックスどころではない。このオイルは再利用するのだろうか。体のオイルはマスタードだそうだ。
森を一つ見た。人工林。だが中にたくさんの偽木や施設がある30万ヘクタールを10人で管理しているという事。ブルーウォータービーチリゾートに泊まる。
トリンコマレは第二次世界大戦中、日本軍がコロンボとともに、空爆したところ。
第二次大戦後、スリランカは日本には賠償を求めなかった。玲子さんという女性に会う。海外シニア協力隊で1年。シンハラ語、タミル語が混じる地域で、女性の花嫁学校のようなところで教えている。前にバングラディシュに行ったが、それと比べるとはるかに落ち着いている。海鮮のグリルを食べたいといったら、運転手に海の見えるイタリアンレストランに連れて行かれた。もっと庶民的なところがよかったとクマちゃん怒る。毎食カレーの玲子さん喜ぶ。
ブルーシーという名前のわりにホテルからは海は見えない。近くに教会もあり、酒は買えない。紅茶を取って飲む。プールで泳ぐ。

9月20日

2015年11月17日

今日から石巻の茅葺き屋の熊谷さん、東大の山本先生、工学院の後藤先生、仙台の神辺さん(建設会社OB)とスリランカ。午後のスリランカ航空直行便でコロンボへ。機内がものすごく寒く、スチュワーデスも不親切。これで15万。夕方ついてクルネガラの安いホテル。スリランカは共和制。インドより暮らしの水準は高い。田舎道なのに突然現れるピカピカのスーパー。かと思うとまるで駄菓子屋みたいな小さな開放的な店。店番の男の子の表情。信号全くない。ヤシの林。あちこちに仏像。運転手が下りてドネーションの箱に札を入れ、祈った。旅の安全か? 仏教徒が多いので、ヒンズー教のインドよりやや穏やかに見える。
緑のゲートの小さな宿に着く。ブタ、鶏、炒め物、果物、ビーフンみたいなものを出してくれる。やぎのチーズの蜂蜜かけ。10人前くらい。ほとんど食べ残す。

10月11日 再見・映画

2015年10月19日

この間いくつか見た映画について感想を。

「ローマの休日」とオードリーヘップバーン
「ローマの休日」は1954年、私の生まれた年の映画、ウィリアム・ワイラー監督。ポスターを小学校の帰りに町で見かけた時の興奮を思い出す。その頃はお姫様に憧れていたのだし。あれから50年。何度見てもいい。一つは「即興詩人のイタリア」で何度もローマを訪ねたので懐かしいからもある。
グレゴリー・ペックが上品ですてき。彼の住む記者のアパートはマルグッタ街51番地。
ここはスペイン階段からも近いが、コンドッティ通りなど観光客の住むスノブな町でなく、芸術家の住む庶民的なまち。須賀敦子の親友も住んでおり、エッセイにもよく出てくる。フォロ・ロマーノあたりで睡眠薬を打たれて眠たい王女を拾ったアメリカ人記者はマルグッタ街のアパートまでタクシーで連れてきて一夜の宿を恵む。
紳士だから悪いことは考えない。でもその身なりも悪くない娘が病気不例、じつは失踪した王女だとは。これはスクープのチャンス。
自由のない生活にうんざりしている王女が髪を切ったり、スペイン階段をアイスクリームをなめながらか闊歩したり、真実の口とかコロセウムとか、アラチェリ教会のものすごい階段とかまるで「即興詩人」よろしくローマ観光映画。とにかくオードリーは眉毛動かしても、唇震えても、目を伏せても、美しいし、表現になっている。これで新人でアカデミー賞主演女優賞。
ハリウッド映画がまだ清潔だった時代。長い長いリラ札が面白い。「You may sit down」というエラそうな王女様の物言い。「I wish、but I cannot」なんて言い回しもいいな。字幕は「残念ですが」。記者にあなたの仕事は? と問われて「public relations」というのも笑った。まさに王室の仕事。国と国の関係をよくし、好感を持ってもらうための訪問。日本の皇室はこの王女ほどものすごいスケジュールをこなしているとは思えないが。
記者のアパートにキッチンがないのを見て「料理の腕はプロ級なのよ」と王女が残念がるシーンがある。これが時代の制約ですね。「王女様も普通の結婚をして、愛する人に腕を振るいたい」という性別役割分担をにじませているわけですね。無粋な見方ですみませんが、ここを唯一の瑕瑾としたい。
オードリーはオランダ貴族の母とイギリスの遊び人の父との間に生れ、両親の離婚で傷つき、戦時中はオランダ・アルンヘムの激戦地で戦争を見た。俳優メル・ファーラーと結婚、一児をもうけるが離婚、イタリア人精神科医と結婚してもう一人男の子を授かるが離婚、最後は年下の俳優と暮らし、ユニセフ大使として平和と貧困撲滅のために人道支援の先頭に立った。62歳でなくなったが、りっぱな人生だったと思う。ドキュメンタリーに登場する息子の発言がりっぱで、それを見ても人生を間違わなかったのがわかる。

映画づいて、よく聞くけど見たことのない映画を見てみる。

「君の名は」菊田一夫原作
最初1952年のラジオドラマで、その時間になると銭湯がガラガラになったものだと聞く。うちの母は私がおなかにいる時に映画を動坂シネマで見たといっている。この話とショールをぐるぐる巻くと「真知子巻きだね」といわれることから気になっていたが見たことはなかった。
これは1953年12月公開の映画。氏家真知子(岸恵子)は空襲の有楽町で後宮春樹(佐田啓二)に助けられ、生きていたら半年後、この橋でまた会おうと約束する。四ッ谷の家は焼け、ひとりぼっちになった真知子は佐渡の叔父を頼り、そのすすめる縁談にしたがい、官僚の浜口(川喜田雄二)と結婚する……。
うちの両親も焼けだされ組だが、空襲で家や家族を失った人は多く、いかにも受けそうなストーリー。しかし岸恵子は今の方がずっときれい。この映画ではなんだか腫れぼったい日本美人の上に、つけまつげが嘘っぽい。料亭の女中の淡島千景の方がよほどきれい。そのうえ、ろくに台詞もいわないで、斜め下にうつむいて、じっと耐える日本の女を演じているのは、彼女らしくもない。官僚たちが「混血児を生む女は尻軽でけしからん」などと放言していたり、浜口の母親(月岡夢路)が「お役所はなんといっても引きですからねえ」なんて言ったり、見ているうちに不愉快になってくる。だいたい浜口も、最初は「見失った恋人を見つけるのに協力する」なんていっていたのに、いったん結婚するや、後宮の足を引っ張るばかりのいやな男。好きでもない男と結婚しながら、好きな男に「お詫びを言いにきたんですの」という真知子の未練たらしいくせに行動にでられないことも含めて、登場人物の偽善ぶりがイライラするとしか言えないC級映画に日本人が紅涙を絞ったのが信じられない。

「愛染かつら」川口松太郎原作 1938年公開。
これまた父母の世代からよく聞く映画であるが一度も見たことがない。谷中の自性院が舞台だと聞かされ一度は見たいものだと思っていた。
これまた今の価値観ではよくわからない映画。田中絹代が悲劇のヒロインというよりはわりとさっぱり、自然な感じなのが救い。7、8回もリメイクされている。
津田病院の御曹司(上原謙)はめでたく博士号を取って、病院に戻り、清潔な看護婦の高石かつ枝(田中絹代)に惹かれる。しかし彼女は夫と死別して幼女を姉に預けて働いていた。当時、子持ちの女と金持ちの御曹司が再婚することはあり得なかったのだろう。夜の11時に待ち合わせて京都に駆け落ちの約束も子どもの病気で果たせない。御曹司には別のお嬢さんとの見合い話もすすむ。最後、歌のうまいかつ枝が看護婦の白い制服でプロ歌手になり、喝采をあび、御曹司とも結ばれると言うハッピーエンド。たしかに谷中の自性院が出てきた。そこにある愛染明王に纏わる愛染かつらに願をかけると、一度は離れた恋人がまた会えるのだとか。
高石の家が、子どもをおいても働かなくてはいけないほど貧しく見えないことや、上原謙がバレンチノ型の美男子で、まったく興味を持てない。いくら御曹司だって、こんなの好きになるかなあ。田中絹代が彼を好きなそぶりが見えない。
最初意地悪をする同僚と看護婦長(今でいうと士長)が演技がいい。
「私、素人の伴奏なんてしなくってよ」という御曹司の妹の台詞、京都から帰った御曹司を母親が「まだ女中も入っていないからお風呂でも入って」などと言う台詞に時代を感じたものの、私としてはパス。

「月よりの使者」大映 1954年
これも私の生まれた年の映画。なんで見ようかとおもったかというと、谷根千合宿で信濃境にいったとき、堀辰雄「菜穂子」の舞台になった富士見町のサナトリウムの古い病棟が残っているのを見学したら、「月よりの使者」のロケがここで行われたと知ったことから。結核というのはロマンスの大テーマだ。
たしかにうつっていた。そして山本富士子、若尾文子、船越英二、菅原英二、根上淳と結構オールスター。この山本富士子さんも、私がこどもの頃は日本一の美女とか言われたが、今となっては美の基準が変わってしまったのか、そう美しくは見えない。鼻が高すぎ、目は小さいし、いわゆるうりざね顔の日本美人で、若尾文子のほうがキュートに見える。過去を持つ看護婦と彼女の優しさに❤マークの患者の男たち、という構図だが、演技というほどのものは見えなかった。

また何か見たら書いてみよう。

10月12日

2015年10月13日

ブログのお休みについて
今年の1月以来、ブログを全く更新しませんでした。毎回読んでくださっているみなさまにお詫び申し上げます。
今までブログは自分の日記のように、忘備録としてつけておりました。
しかし昨年秋に病気が発見され、その治療方針の確定や治療そのもので、4月までかかりました。すでにみすず書房の「森のなかのスタジアム」に書きましたが、子宮頸がんの1b1期でした。ちょっと前までは、がんは死病で、患者に告知することさえ、普通ではありませんでした。いまでは、告知はおろか、自分で調べ、治療法を選択することさえできます。二人に一人ががんにかかる時代になり、がん治療も日進月歩です。「がんにかかる」というより、「がんが見つかってしまう」時代といってもいいのかもしれません。そういう意味で過度な検査や治療にもまた疑問がなくはありません。
そしてがんは百人百様です。私のがんは24年間も前ガン症状のまま、おとなしくしていたがんなので、放置もかんがえましたが、やはりその場合のリスクも大きいので、病院を選び、放射線療法を選び、抗がん剤は「拒否」でなく「ご辞退」させていただきました。医師たちとは大変よい関係を作れ、感謝しています。ただまだ治ったと決まったわけではありません。仮に手術をしたとしても完全に治るとは限りません。手術による転移などもありえます。私の場合も転移や再発の危険がなくなったわけではありません。そのため、自分の免疫力を上げ、がんを消す気功や整体、食療法などを試みていますので、大変忙しくなりました。
それ以前より、神宮の森に巨大なスタジアムができるという新国立競技場問題があり、その危険を広めるためにFacebook、Twitterを使わざるをえなくなり、その外にブログをするということが大変きつかったので、しばらくお休みせざるをえないことになりました。これからは何かトピックスがあった時に更新しようと思います。その前に私の今年の様子を手帳とTwitterから拾いながら月ごとにご報告します。遡る形で読みにくく申し訳ありません。

森まゆみ

12月31日

2015年3月23日
新国立について最近の情報では安藤忠雄さんは「新国立競技場コンペでザハ案を強く推したのは鈴木博之先生で、僕らも鈴木先生のご意志を大切にせなあかん」なんていっているそうな。なくなった鈴木先生に反論権はない。夜 またまたサンド夫妻と、去年とほぼ同じ除夜の鐘付き谷中コース。最後も去年と同じ善光寺坂のバーだった。全生庵で地域のいろんな人に会う。今年もよろしくおねがいします。ドラム缶のたき火から目の中にはいった火の粉が痛くてたまらず。

新国立について最近の情報では安藤忠雄さんは「新国立競技場コンペでザハ案を強く推したのは鈴木博之先生で、僕らも鈴木先生のご意志を大切にせなあかん」なんていっているそうな。なくなった鈴木先生に反論権はない。夜 またまたサンド夫妻と、去年とほぼ同じ除夜の鐘付き谷中コース。最後も去年と同じ善光寺坂のバーだった。全生庵で地域のいろんな人に会う。今年もよろしくおねがいします。ドラム缶のたき火から目の中にはいった火の粉が痛くてたまらず。