2014年7月 のアーカイブ

5月19日 青鞜の文字使い

2014年7月29日 火曜日
講談社文芸文庫『青鞜小説集』の解説を書く。解説や書評はこのところ断っているが、『青鞜』なのでやらないわけにいかない。まあ、よみにくい事。書き手によってバラバラ。「褞袍、嘶く、貴方、貴女、戯談 し様、此の儘、周章てる、一寸、如何に、如何な、此処、彼処、其処、見度い、可成、塗土、許、無論、屹度、兎に角、亦、凝っと、直ぐ、最早、不図、今迄、儘」みんなひらがなにしてしまったら読みやすいのにと思う。

講談社文芸文庫『青鞜小説集』の解説を書く。解説や書評はこのところ断っているが、『青鞜』なのでやらないわけにいかない。まあ、よみにくい事。書き手によってバラバラ。「褞袍、嘶く、貴方、貴女、戯談 し様、此の儘、周章てる、一寸、如何に、如何な、此処、彼処、其処、見度い、可成、塗土、許、無論、屹度、兎に角、亦、凝っと、直ぐ、最早、不図、今迄、儘」みんなひらがなにしてしまったら読みやすいのにと思う。

5月18日 偶然の装丁家

2014年7月29日 火曜日
朝早く、東京プリンスホテルでイスラーム系の大使館夫人によるチャリティバザーに行く。
シリアなど大変な国の大使の奥さんはけっこうその国の運命を気遣い、夫の安全を気遣いながらがんばっている人が多いようだった。
高円宮妃がくるので大騒ぎ、話しかけるなとか、いろいろの規制があった。薔薇水、オリーブオイル、アルガンオイル、レモン塩などいろいろ調味料を買って帰る。スーダン大使令嬢にヘナをしてもらう。夕方は矢萩多聞さんと中島岳志さんのトークを東京堂で聞く。
『偶然の装丁家』ずっと机の左に積んどくで、ぱらぱらながめたけれどよむ時間がなかった。今日、帰って酔っぱらっていったん寝た後に、起き出してよむ。いままでにない「ですます体」を作っているなと思います。ですます体は下手するとだらける。下手すると赤旗になる。下手すると説教臭くなるが。肉体があって風がふく文体になっている。それにしてもモリタくんのその後が気になる。
私も小学校一年で不登校になった。雪が降ると早くリンゴ箱で坂道でそり滑りをしたいとか。もう、学校なんか行ってる場合じゃなかった。でも、親がお宅ほど自由を認めてくれず、結局中学受験をさせられ、中学も高校もさぼりにさぼったけど、さぼって大学に入れたらかっこいいみたいな、倒錯した受験生になって、みごとトーダイにおち、早稲田に入った。そんなだから、多聞さんのインド生活、下痢やかゆみに悩まされたとはいえ、うらやましい。ケーブルを何キロも引いてパソコンがつながるのも不思議。そういえばインドに行った時、ただで見てくれる鳥の病院があってみんな鳥かごを持って並んでいたのを思い出す。

朝早く、東京プリンスホテルでイスラーム系の大使館夫人によるチャリティバザーに行く。

シリアなど大変な国の大使の奥さんはけっこうその国の運命を気遣い、夫の安全を気遣いながらがんばっている人が多いようだった。

高円宮妃がくるので大騒ぎ、話しかけるなとか、いろいろの規制があった。薔薇水、オリーブオイル、アルガンオイル、レモン塩などいろいろ調味料を買って帰る。スーダン大使令嬢にヘナをしてもらう。夕方は矢萩多聞さんと中島岳志さんのトークを東京堂で聞く。

『偶然の装丁家』ずっと机の左に積んどくで、ぱらぱらながめたけれどよむ時間がなかった。今日、帰って酔っぱらっていったん寝た後に、起き出してよむ。いままでにない「ですます体」を作っているなと思います。ですます体は下手するとだらける。下手すると赤旗になる。下手すると説教臭くなるが。肉体があって風がふく文体になっている。それにしてもモリタくんのその後が気になる。

私も小学校一年で不登校になった。雪が降ると早くリンゴ箱で坂道でそり滑りをしたいとか。もう、学校なんか行ってる場合じゃなかった。でも、親がお宅ほど自由を認めてくれず、結局中学受験をさせられ、中学も高校もさぼりにさぼったけど、さぼって大学に入れたらかっこいいみたいな、倒錯した受験生になって、みごとトーダイにおち、早稲田に入った。そんなだから、多聞さんのインド生活、下痢やかゆみに悩まされたとはいえ、うらやましい。ケーブルを何キロも引いてパソコンがつながるのも不思議。そういえばインドに行った時、ただで見てくれる鳥の病院があってみんな鳥かごを持って並んでいたのを思い出す。

5月17日 隅田川ピクニック

2014年7月29日 火曜日

墨田リバーサイドホールで「東京シティガイドクラブ」の総会で講演。本を売りませんか、とお申し出をいただき、でも休日故、人足らず。そうしたら谷根千仲間の真理ちゃんと青井さんが来てくれて、本を売ってくれる事に。この団体のメンバーはとっても勉強好きと見え、本は飛ぶように売れた。そして総会の間は私たちは隅田川に向かう階段でサンドイッチを食べてピクニックをしていたのだった。そのあと講演、不思議な一日。依田学海のひ孫という方にお会いした。

5月13日 新国立競技場10の問題点

2014年7月29日 火曜日
聖路加病院に行く。主治医が移転したためなり。たいへん、患者への対応のいい病院なり。
1、歴史ある神宮外苑の風致と歴史、絵画館のバッファゾーンを破壊し景観上問題がある。
2、散歩、子育て、通勤、ジョギング、昼寝、読書などにも使われている神宮外苑、人生への慰め、ぼんやりとした時間の大切さを奪う。
3、明治公園、デモや集会でもよく用いられ、遊ぶ場所でもあるとともに、日本の市民社会、民主主義にとっても重要な公園を壊す。
4、1964年のオリンピックで立ち退きをさせられた霞ヶ丘アパートの人々は再度の移転を強いられることになリ、コミュニティも壊される。
5、いまただでさえ災害復興住宅が入札不調になっているのに、東北へまわすべき資材と人材を東京で奪う。
6、外苑西通りのマンションの人々は、風害、照り返し、騒音、火災、道路廃止、混雑、のぞかれること、窓からの景色等を奪われる。
7、FMファシリティマネジメント、LCCライフサイクルコストの観点からも維持費、改修も問題。未来世代に付けを残す
8、都市計画審議会が専門家もいないまま、ろくな論議をせずに高さ制限を外した。
9、リオの環境サミットをふまえて制定されたオリンピックムーブメントアジェンダ21に背馳する。
10、現国立は文化財ではないというが国の登録文化財となっても好いし、また未指定だとしても、都民国民の記憶を宿す文化資源として把握すべきである。
11、スポーツ関係者の意見が反映されていない。多目的なあまりにどの競技にとっても使いにくい。陸上にとってみるとサブトラがない。高くて借りられない、8万人も集まらない。サッカーにとってみると、屋根があるため芝生が育たない。ラグビーやイベントをやると芝をいためる。後藤健生さんいわく「時代遅れの戦艦大和」。
12、可動席、開閉式屋根、空調など電気仕掛けで、時代に逆行する。屋根は70メートルの高さのため、急に雨が振り出すと、中で雨が舞って、屋根の役を成さない。芝を育てない。日よけ雨よけとしてつけるのなら頭の上に簡単な屋根がある方がいい。
13、災害時の避難場所にする場合、そのとき停電になれば屋根の開閉は出来るのか?(自家発電する?) 建造物は人間を守るためのもので、大震災の体育館の避難所をたくさん見た目からしても、70メートルの屋根の下で避難生活は送りたくはない。
14、雪害に弱いということで問い合わせてみると、電線を這わせて雪を溶かすといっていたが、弥縫策でどんどん電気に頼る建築になっている。
15、環境アセスは100メートル以下なのでやる必要はないといっていたが、都が独自のアセスをやっている。それも市民にアクセスしにくいもので、市民参加がどこでも保証されていない。
16、都心の緑地によってヒートアイランド化は回避されているが、それがなくなる。

聖路加病院に行く。主治医が移転したためなり。たいへん、患者への対応のいい病院なり。

1、歴史ある神宮外苑の風致と歴史、絵画館のバッファゾーンを破壊し景観上問題がある。

2、散歩、子育て、通勤、ジョギング、昼寝、読書などにも使われている神宮外苑、人生への慰め、ぼんやりとした時間の大切さを奪う。

3、明治公園、デモや集会でもよく用いられ、遊ぶ場所でもあるとともに、日本の市民社会、民主主義にとっても重要な公園を壊す。

4、1964年のオリンピックで立ち退きをさせられた霞ヶ丘アパートの人々は再度の移転を強いられることになリ、コミュニティも壊される。

5、いまただでさえ災害復興住宅が入札不調になっているのに、東北へまわすべき資材と人材を東京で奪う。

6、外苑西通りのマンションの人々は、風害、照り返し、騒音、火災、道路廃止、混雑、のぞかれること、窓からの景色等を奪われる。

7、FMファシリティマネジメント、LCCライフサイクルコストの観点からも維持費、改修も問題。未来世代に付けを残す

8、都市計画審議会が専門家もいないまま、ろくな論議をせずに高さ制限を外した。

9、リオの環境サミットをふまえて制定されたオリンピックムーブメントアジェンダ21に背馳する。

10、現国立は文化財ではないというが国の登録文化財となっても好いし、また未指定だとしても、都民国民の記憶を宿す文化資源として把握すべきである。

11、スポーツ関係者の意見が反映されていない。多目的なあまりにどの競技にとっても使いにくい。陸上にとってみるとサブトラがない。高くて借りられない、8万人も集まらない。サッカーにとってみると、屋根があるため芝生が育たない。ラグビーやイベントをやると芝をいためる。後藤健生さんいわく「時代遅れの戦艦大和」。

12、可動席、開閉式屋根、空調など電気仕掛けで、時代に逆行する。屋根は70メートルの高さのため、急に雨が振り出すと、中で雨が舞って、屋根の役を成さない。芝を育てない。日よけ雨よけとしてつけるのなら頭の上に簡単な屋根がある方がいい。

13、災害時の避難場所にする場合、そのとき停電になれば屋根の開閉は出来るのか?(自家発電する?) 建造物は人間を守るためのもので、大震災の体育館の避難所をたくさん見た目からしても、70メートルの屋根の下で避難生活は送りたくはない。

14、雪害に弱いということで問い合わせてみると、電線を這わせて雪を溶かすといっていたが、弥縫策でどんどん電気に頼る建築になっている。

15、環境アセスは100メートル以下なのでやる必要はないといっていたが、都が独自のアセスをやっている。それも市民にアクセスしにくいもので、市民参加がどこでも保証されていない。

16、都心の緑地によってヒートアイランド化は回避されているが、それがなくなる。

5月12日 伊東豊雄さんの改修案

2014年7月29日 火曜日
池本英子さんより「物理学者の故水戸巌先生の本が出版されました。チェルノブイリの事故の時に私が以前住んでいた神奈川県座間市で講演をお願いをしたことがあります。その次の年にご子息お二人と一緒に冬山の剱岳で遭難して亡くなられました。三年前の福島原発の事故が起こった時には、水戸先生が生きていて下さったらどんなにか大きな力になってくださったかと思いました」。
本日夕方、千駄ヶ谷津田ホールで伊東豊雄さんと中沢新一さん、森山高至さん、松隈洋さんで国立競技場の改修案の発表会あり。430人満員。相当前から予約をお断りしなければならず、しかし当日来ない人もいて、くれば入れた。共同代表たちは森桜指揮のもと、よく働き、岩波ブックレット「異議あり、新国立競技場」も50冊近く売れたという。
伊東さんは「敗軍の将兵を語らず」と思っていたが、と前置きして、だけど2ヶ月の短い期間でも真剣にあそこに競技場を建てようと考えた人間にしかわからないことはある。コンクールの伊東案もパースを見るだけでは四角く屋根のあいたあまり個性的でないプランと思ったが、説明を聞くとザハより二〇メートル近く低く抑え、まわりの水辺を渡る風がスタジアムないに入るようなしかけ、開閉式屋根が必要なら一番無理なくかけられる方式を採用といちいち、必然性があるのだった。そして今となれば一番工期も短く、工費もかからないのは改修であろう、という事で改修案を示された。自分がやるつもりはなく提案だけだという事だが、「費用はおそらく半分ですむ」と言明。とても刺激的な一夜だった。

池本英子さんより「物理学者の故水戸巌先生の本が出版されました。チェルノブイリの事故の時に私が以前住んでいた神奈川県座間市で講演をお願いをしたことがあります。その次の年にご子息お二人と一緒に冬山の剱岳で遭難して亡くなられました。三年前の福島原発の事故が起こった時には、水戸先生が生きていて下さったらどんなにか大きな力になってくださったかと思いました」。

本日夕方、千駄ヶ谷津田ホールで伊東豊雄さんと中沢新一さん、森山高至さん、松隈洋さんで国立競技場の改修案の発表会あり。430人満員。相当前から予約をお断りしなければならず、しかし当日来ない人もいて、くれば入れた。共同代表たちは森桜指揮のもと、よく働き、岩波ブックレット「異議あり、新国立競技場」も50冊近く売れたという。

伊東さんは「敗軍の将兵を語らず」と思っていたが、と前置きして、だけど2ヶ月の短い期間でも真剣にあそこに競技場を建てようと考えた人間にしかわからないことはある。コンクールの伊東案もパースを見るだけでは四角く屋根のあいたあまり個性的でないプランと思ったが、説明を聞くとザハより二〇メートル近く低く抑え、まわりの水辺を渡る風がスタジアムないに入るようなしかけ、開閉式屋根が必要なら一番無理なくかけられる方式を採用といちいち、必然性があるのだった。そして今となれば一番工期も短く、工費もかからないのは改修であろう、という事で改修案を示された。自分がやるつもりはなく提案だけだという事だが、「費用はおそらく半分ですむ」と言明。とても刺激的な一夜だった。

5月11日 白山駅のこまったこと

2014年7月29日 火曜日
三田線白山駅について私の意見に対する都の交通局からのメールに返信。
「白山駅は二つの改札のうち、白山下に出る方には係員がいないことが多く、困ります。
そのときは若い職員が座っていましたが、半目でぐったりしていて反応しませんでした。
私はプリペイドカードはよくなくすので、何時も現金できっぷを買っています。
でも販売機の一台が故障していることは比較的よくあるようです。
都営地下鉄のせいではありませんが、もう一つ若くて元気なはずの東洋大学生がエレベーターを利用するため、老人や赤ちゃん連れが乗れないことについても住民の受忍限度は越えています。ガードマンのおじさんがプラカードを持っていますが、そのおじさんがかわいそうなくらい無視されています。このまえもエレベーターの中で期末試験の相談をしていたので、学生さんは階段を使ってください、と行ったのですが、無視されました。東洋大学は白山にキャンパスをまとめることによって偏差値も上がり、経営もうまくいっているので、自費で専用のエレベーターを付けるよう、勧告されたらどうでしょうか?」

三田線白山駅について私の意見に対する都の交通局からのメールに返信。

「白山駅は二つの改札のうち、白山下に出る方には係員がいないことが多く、困ります。

そのときは若い職員が座っていましたが、半目でぐったりしていて反応しませんでした。

私はプリペイドカードはよくなくすので、何時も現金できっぷを買っています。

でも販売機の一台が故障していることは比較的よくあるようです。

都営地下鉄のせいではありませんが、もう一つ若くて元気なはずの東洋大学生がエレベーターを利用するため、老人や赤ちゃん連れが乗れないことについても住民の受忍限度は越えています。ガードマンのおじさんがプラカードを持っていますが、そのおじさんがかわいそうなくらい無視されています。このまえもエレベーターの中で期末試験の相談をしていたので、学生さんは階段を使ってください、と行ったのですが、無視されました。東洋大学は白山にキャンパスをまとめることによって偏差値も上がり、経営もうまくいっているので、自費で専用のエレベーターを付けるよう、勧告されたらどうでしょうか?」

5月8日 霞ヶ丘アパート

2014年7月29日 火曜日
新国立競技場計画のために明治神宮が壊され、その代わりに公園地とされ、立ち退きが予定される都営霞ヶ丘アパートの事を話し合いにいく。住民の方も来てくださる。まず、マスコミにも出ているタバコ屋の甚野さんに挨拶。でもマスコミに出ているのはこの方くらいです。町会長の井上さんに挨拶しにいったが不在。住民の話を総合すると、
「戦争中はこのへんは近衛4連隊の土地で兵舎があった。そこに戦災の罹災者やその管理者が入り住み込んだ。同じ頃、ベニヤで長屋が出来た。そうした人々が1964年に合せて建てられた今のコンクリートの住宅に住み替えた。その工事はオリンピックを前に突貫工事で、土木屋が建てた。クラックも入っているし、耐震性にも問題があるのではないか、と思う。このへんは昔はもっと住宅が多く商店街もたくさんあった。暮らしに便利で緑の多い土地だった。もう50年経つので、都の方に改修や建て替えの要望を出して来た。それが中々返答がなかった。当初300世帯。今180世帯ほど。そこへ今度はオリンピックで立ち退けという。明治公園をつぶすのの代替地に霞ヶ丘が今度は公園になる。すぐ近くの容積率の高い所に都営住宅を建て直せばいい、と行ったらそこはJSCと日本青年館を合築するから無理といわれた。
石原知事はオリパラの会議で、「都心の一等地にあんな都営住宅をおく必要はないので、つぶしてけっこう」といったと伝えられる。公園を確保するために、住民を追い出すということがわからない。2012年に最初に都からの説明会があって、寝耳に水でみんな怒って会議が四時間にのびた。住民はまるでもののように扱われている。
あとから入って来た人は若い家族が多く、新宿百人町の都営に斡旋を受けて40世帯ほど出て行った。とくに受験をひかえた小中学生を保つ世帯は、行った人によると空いている所どこでも好きな所に入っていいと言われたとか。昔はコミュニティがあって子育てをいっしょにやったり、お祭りに参加して来たが、亡くなる人、子どもの所へ越した人、施設に入っている人、いろいろあって、昔のようではない。
でも病院につきそっていってね、といえば頼める友人はいる。いま若松町など二つの都営が建て替えなので、そこの人たちがはいったあとで余った所に霞ヶ丘の人を移すという案。いくつ余るかわからないし、今まで2DKなのに一人暮らしだから一Kに移れといわれても困る。家族が来たり往信が来たりしたときに応接スペースがないのはイヤ」
すでにここが取り壊されるアパートということで、取材、見学の人が多く来て、観光地化しているとのこと。団地内は花畑などもあって、市場もついていてそれなりに住みやすい雰囲気です。が以前あったいろんな商店や床屋さんは皆なくなってしまったという。

新国立競技場計画のために明治神宮が壊され、その代わりに公園地とされ、立ち退きが予定される都営霞ヶ丘アパートの事を話し合いにいく。住民の方も来てくださる。まず、マスコミにも出ているタバコ屋の甚野さんに挨拶。でもマスコミに出ているのはこの方くらいです。町会長の井上さんに挨拶しにいったが不在。住民の話を総合すると、

「戦争中はこのへんは近衛4連隊の土地で兵舎があった。そこに戦災の罹災者やその管理者が入り住み込んだ。同じ頃、ベニヤで長屋が出来た。そうした人々が1964年に合せて建てられた今のコンクリートの住宅に住み替えた。その工事はオリンピックを前に突貫工事で、土木屋が建てた。クラックも入っているし、耐震性にも問題があるのではないか、と思う。このへんは昔はもっと住宅が多く商店街もたくさんあった。暮らしに便利で緑の多い土地だった。もう50年経つので、都の方に改修や建て替えの要望を出して来た。それが中々返答がなかった。当初300世帯。今180世帯ほど。そこへ今度はオリンピックで立ち退けという。明治公園をつぶすのの代替地に霞ヶ丘が今度は公園になる。すぐ近くの容積率の高い所に都営住宅を建て直せばいい、と行ったらそこはJSCと日本青年館を合築するから無理といわれた。

石原知事はオリパラの会議で、「都心の一等地にあんな都営住宅をおく必要はないので、つぶしてけっこう」といったと伝えられる。公園を確保するために、住民を追い出すということがわからない。2012年に最初に都からの説明会があって、寝耳に水でみんな怒って会議が四時間にのびた。住民はまるでもののように扱われている。

あとから入って来た人は若い家族が多く、新宿百人町の都営に斡旋を受けて40世帯ほど出て行った。とくに受験をひかえた小中学生を保つ世帯は、行った人によると空いている所どこでも好きな所に入っていいと言われたとか。昔はコミュニティがあって子育てをいっしょにやったり、お祭りに参加して来たが、亡くなる人、子どもの所へ越した人、施設に入っている人、いろいろあって、昔のようではない。

でも病院につきそっていってね、といえば頼める友人はいる。いま若松町など二つの都営が建て替えなので、そこの人たちがはいったあとで余った所に霞ヶ丘の人を移すという案。いくつ余るかわからないし、今まで2DKなのに一人暮らしだから一Kに移れといわれても困る。家族が来たり往信が来たりしたときに応接スペースがないのはイヤ」

すでにここが取り壊されるアパートということで、取材、見学の人が多く来て、観光地化しているとのこと。団地内は花畑などもあって、市場もついていてそれなりに住みやすい雰囲気です。が以前あったいろんな商店や床屋さんは皆なくなってしまったという。

5月7日 代々木のモスク

2014年7月29日 火曜日
紀伊国屋書店のPR誌に連載中の「隣のイスラーム」の取材で代々木上原のモスクへ行く。きれいに建て直されており、モスクの中にはイスラーム文字の芸術ともいえる作品がいっぱいあった。

紀伊国屋書店のPR誌に連載中の「隣のイスラーム」の取材で代々木上原のモスクへ行く。きれいに建て直されており、モスクの中にはイスラーム文字の芸術ともいえる作品がいっぱいあった。

5月6日 携帯メール

2014年7月29日 火曜日

フランスにいる息子から、「ユーロは高いけどお金を使わないで楽しくやってます。産んでくれてありがとう」と来たので、きのうは彼の誕生日だったのを思い出し、あわてて携帯からメール。このまえ竹富島で持っていったパソコンが使えず、携帯メールがあってたすかった。携帯メール、相当打つのが速くなった。

5月5日 西片町の変貌

2014年7月29日 火曜日
朝地震。散歩三日目。西片町。サイディングの新しいうちが多くなっている。私はこのサイディングは好きではない。西片町はお金を持ったらすみたい町なんだろう。だから新住民がはいって来て、建てる家が私の趣味とはちがい、自分の感じる懐かしさがこわれているのを感じてしまう。私が子供の頃はインテリの住む町だったが、大学の先生たちはバブルの頃ここを持ちこたえられなくて、かなり転居した。誠之小学校、翠の窓、古い洋館、旧友の家、かなりアップダウンがある。空橋通りを横切り、本郷館がマンションになっていたのにはびっくり。鳳明館、求道会館は健在、木村伊兵衛の撮った街角を過ぎ、炭団坂上に出た。今日は正岡子規のいた常磐会宿舎のあとを確かめたかった。それ以前には坪内逍遥がいてここで『小説神髄』を書いた。マンション風のビルが建っていたが、崖の石垣は古くてその上にシャガが一面に咲いていた。菊坂下。このへんの方が古いものが残っている。成功者の町はどんどん新しくなるが、このへんは元の通りひっそりしている。また坂を上がり、真直ぐ行くと中山道に出た。
2時、オリンピックに関する取材の約束を忘れる。あわてて飛んでいくと、記者とカメラマンは「日頃珈琲をゆっくり飲む時間がないのでよかった」という。ありがたい、気持ちよい青年たちなり。
夜は母の家で食事。母は豆腐が嫌い。何でもはっきり好き嫌いを言うのがいい。安田邸のボランティアでいろんな人と仲良くなって、「外国の人もたくさん来るからこれから英語を勉強しようかとおもって」という85歳。戦後は進駐軍の病院につとめる歯科医だったので、フランス語、ドイツ語、英語も使って語学手当をもらっていたとか。「フランス人が来たら、スィットダウンでなくアッセヴーというと喜んだもんよ。異国で自分の国の言葉に出会うと嬉しいのよね」。

朝地震。散歩三日目。西片町。サイディングの新しいうちが多くなっている。私はこのサイディングは好きではない。西片町はお金を持ったらすみたい町なんだろう。だから新住民がはいって来て、建てる家が私の趣味とはちがい、自分の感じる懐かしさがこわれているのを感じてしまう。私が子供の頃はインテリの住む町だったが、大学の先生たちはバブルの頃ここを持ちこたえられなくて、かなり転居した。誠之小学校、翠の窓、古い洋館、旧友の家、かなりアップダウンがある。空橋通りを横切り、本郷館がマンションになっていたのにはびっくり。鳳明館、求道会館は健在、木村伊兵衛の撮った街角を過ぎ、炭団坂上に出た。今日は正岡子規のいた常磐会宿舎のあとを確かめたかった。それ以前には坪内逍遥がいてここで『小説神髄』を書いた。マンション風のビルが建っていたが、崖の石垣は古くてその上にシャガが一面に咲いていた。菊坂下。このへんの方が古いものが残っている。成功者の町はどんどん新しくなるが、このへんは元の通りひっそりしている。また坂を上がり、真直ぐ行くと中山道に出た。

2時、オリンピックに関する取材の約束を忘れる。あわてて飛んでいくと、記者とカメラマンは「日頃珈琲をゆっくり飲む時間がないのでよかった」という。ありがたい、気持ちよい青年たちなり。

夜は母の家で食事。母は豆腐が嫌い。何でもはっきり好き嫌いを言うのがいい。安田邸のボランティアでいろんな人と仲良くなって、「外国の人もたくさん来るからこれから英語を勉強しようかとおもって」という85歳。戦後は進駐軍の病院につとめる歯科医だったので、フランス語、ドイツ語、英語も使って語学手当をもらっていたとか。「フランス人が来たら、スィットダウンでなくアッセヴーというと喜んだもんよ。異国で自分の国の言葉に出会うと嬉しいのよね」。