2014年4月 のアーカイブ

2月1日

2014年4月10日 木曜日

腰痛ひどい。

1月31日

2014年4月10日 木曜日

私は原稿の二度売りはしないが、今回の国立競技場についてのみは急いでより広くお知らせしたいので、頼まれればどこにでも書く。今まで「週刊金曜日」「革新懇ニュース」「建築ジャーナル」「毎日新聞」「信濃毎日」「傘松」に書き、これから平凡社から出る単行本、「住宅建築」などに書いた。簡潔な問題点の指摘ばかりである。みすずの守田さんに、もう少し長く、運動の心のひだや悩みも含めて書けないかなとたのんだら「みすず」のページをわけてくれることになった。これまた日本でも最も意識の高い知識層が読む雑誌だからありがたい。
故・藤田省三さんから「同じことでも大事なことは何度でも書く必要があります。書くたびに少しずつ知見が広がり、思考が深まってくるものです」と言われたのを思い出す。まさにそうだ。今回、10月に招致に敗北したイスタンブールで見てきたことを書いた。ゲジ広場の平和的占拠やそこで亡くなった若者たちのこと、チョムスキーが早速出した「ゲジ・パーク」という本のことも。

一月終わり。

1月30日

2014年4月10日 木曜日

糸島キャンパスの内藤さんの講堂を見た。
まず九大があんなところに変なキャンパスを作って学生の利便性がきわめて悪いため、いい学生が集まらないようになるのでは。そしてこの講堂はなんなの! でした。まるで平凡で、どこにも冴えがない。丸い建物。

1月29日

2014年4月10日 木曜日

上の階の横関さんがセネガルから帰ってきたのでワインを飲みに行く。旦那さんのポール・ギフォードさんとオリンピックスタジアムについて話す。ロンドン大学で教えていたアフリカ研究者の彼は、八ッ場ダムの遺蹟保存や今回の国立競技場見直しの賛同もしてくださっているが、ロンドンオリンピックはスラム街の修復にとても役に立ち、その地域は文化的にも再生した、という。2万5000を常設、5万5000を仮設にして、あとで減築したスタジアムとくらべ、8万席の新国立のことを話すと、手を広げてびっくり。『青鞜の冒険』をお見せするとイギリスのブルーストッキングについても語ってくれた。パートナーの横関さんが忙しい時には一人で谷根千の町を探索し、妖怪博士井上円了にとても関心があるとか。ハンガリーの地質学クラッシャイさんからは『震災日録』を読んだ感想が伊藤さんより。パリ大学ミュリエルさんからもお年賀状。、毎日新聞に「縮小社会に舵を切る」が載ったので、ベトナムに行く空港から北大の大崎先きょう生もメールをくれた。
「常識的に、感として、地球の実質経済(物の動き)が二倍になると、多分地球は持たない気がします。閾値が分かったときは、すでに時遅しで、ごめんなさいで済む話でもないし。そう考えると、現代資本主義システムは原発システムに似てませんか」本当にそう思う。

1月27日

2014年4月10日 木曜日

午後2時過ぎのビートルで釜山へ。参鶏湯を食べ、キンパを買い、翌日戻る。

1月26日

2014年4月10日 木曜日

菊池の軽トラ朝市を見学、いがぐり園でラーメン。講演会「地域の記憶を記録する~市民の物語を掌(てのひら)にまちを繕う~」。時間は1時間。若干の質疑応答あり。夕方は菊池レトロ館のれとろ食堂にて懇親交流宴。山奥に新しく出来た「岩蔵」(いわくら)へ。宿泊。大げさであまり私には会わない宿だった。

1月25日

2014年4月10日 木曜日

板橋の劇団銅鑼の稽古場で、「女三人のシベリア鉄道」のプレイベントがある。
林芙美子にも詳しい尾形明子さんが講演をしてくださるという。もったいないこと。著者が見えるとお話ししにくいだろうと出来るだけ後ろにすわりたかったが、劇団関係者に一番目立つところに案内されてしまった。瀬沼夏葉のシベリア鉄道の話などとっても面白かった。ロシア料理あり、ロシア民謡ありの盛りだくさんなイベント。しかし7時の便で九州に行かなくてはならず。
旧友、藤原恵洋・馨さんの新しい住まいに泊めていただく。福岡のネクサスでとなりはザハ・ハディドの師匠コールハース(ロックミュージシャンみたいな)と石山修武さんのマンションが建っていた。

1月24日

2014年4月10日 木曜日

市川房枝記念婦選会館で新国立競技場計画について話す。各地の議員、市民運動の女性たち、日本で一番政治意識の高い方たちでも「知らなかった」との驚きの反応、さっそく署名集まる。元日経記者藤原房子さんや元国立市長上原公子さんも来場、賛同してくださる。心強いことである。

1月23日

2014年4月10日 木曜日

名護市長選勝利万歳。
BPOでこの間、ご一緒したもとNHKの科学記者小出五郎さんの訃報。
いかにも急に亡くなられた。原発を扱った番組で警鐘を鳴らしておられたが、「わからないことはあおらない」という穏やかな姿勢が反原発の陣営から批判もされていた模様。11月には福島の放送局への出張もご一緒して、地方局のジャーナリストとにこやかに懇親されていたのに。お二人ともまだ70代のはなだ。こたえる。しかし最後まで見事に現役だったことをよしとするしかない。
竹富島では田中郁子さんが亡くなられた。さまざまな激動の人生を経て竹富島にIターンをして一生懸命働いていた郁子さん、もっとたくさんの時を共有したかった。

1月22日

2014年4月10日 木曜日

田野畑村・本家旅館畠山照子さんの話
うちには三好達治、深田久弥、吉村昭さんがいらっしゃいました。吉村さんはそのうち羅賀ホテルの方に行くようになった。うちの親父(ご主人)は畠山栄一といって、厳しい人でした。娘が上机という田野畑の村長の家に嫁いでますけどね。私は1926年に宮古に生まれて、女学校でて3月27日に代用教員になって4月に赴任してきたの。羅賀国民学校ってね。250人生徒が居て、もうこのへん自給自足しかないもの、食糧難で、配給は一人2合五せきだった。僻地手当なんてなかったかな。昭和18年だった。私の給料は年に370円、月給が18歳で30円だった。生徒と3歳しか違わないの。そのころは帳面もペンもなくて教科書もろくになかった。
そのころここは陸の孤島で、どこに行くのも思案坂、辞職坂とかいって、坂を上るたびに、こんなところにいていいものやら考え考え歩きました。
病院は尾本にあって、入院する時は布団やなべかまも持っていた。米軍が海から艦砲射撃をしてねえ。監視厰というのがあるからね。鉄砲玉を子どもたちが拾って。
ひどい山ばっかりでねえ。岩泉でよく会合があったけど朝7時に出て泣きっ面峠を越え、山道を一人で5時間歩いていた。盛岡に行くにも、夜も寝ないで歩いたり。それで体が丈夫なのかもしれない。
うちのおじいさんは八戸の中学でて、高等商業でて終戦のころは上海の武装部隊に居て、帰ってきた。宮沢賢治の思想にかぶれて帰ってきた親不孝もんなの。そのまま会社員になればいいのに、帰ってきて、炭焼いたりしたからもっと親不幸。
21年の11月28日に結婚したの。だって、お国のために勝つため勝つためと教えたので、もう教員はできないって。いままでと真反対のことを教えるなんてできないでしょ。本の好きな人で八戸で勝った本を何百冊も持ていたから、その本が読みたくて、嫁にきたようなもんよ。この家はたくさん土地を持って地代だけでやって行けるような家だったけど、終戦後は農地解放でずいぶんなくしたんじゃないか。おやじさんはそれから漁業組合を立ち上げていろいろ働いたし。今度の震災なんていいよ。ボランティアは来てくれるし、物資はもらえるし。昭和8年の津波のときは何の支援もなかったとうちのオヤジはいってた。目撃しているから、ずっと津波の話ばかりして、吉村先生初めみんなを案内したけど、津波を見ずに亡くなったのはよかったかもね。
昭和28年に今の高台に上がって旅館を始めた。昔はこの辺でも芝居小屋やテニスコート、銀行もあった。それが昭和8年に一晩で流されたって。津波が来たら、いのちはてんでんこというのは本当だね。チリ地震の津波は私も見たけど、沖まで海が引いて、宿にお客もいたし。海の底が見えた。今回、大船渡が6メートルの津波といった。ラジオを持ち出して、1人で最後まで居た。そしたらどこからか「本家の奥さん来ねば」と呼びにきて、広間の上から真っ黒な水しぶきが見えた。平成8年にやり替えたけど、明治のままの弱い石垣だったらやられていたに違いない。
この辺は海辺なのであたたかいの。夏は涼しいしいいとこですよ。どんこ鍋をごちそうできればよかったのに。予約があればどんこも入れるんだけどね、今度ぜひ泊まりにきてくださいね、といっておそばを作ってくださった。

田野畑村役場
吉村昭「星への旅」の色紙。役場の人の話。「復興計画はあるが職員不足。復興住宅ももうできていなければならないが、話し合いをすればするほど遅れていく。二度の大津波でそれを想定していろんな防災計画は持っていたが、津波をなめてた。
前の村長は手腕のある人で4期やったが、腕が良すぎて、住民が無視されたと思ったのかも。2割は自主再建を進めている。小館の移転団地と復興公営住宅、入札が不調。
番屋はJRが設計してサポーターも交付金もついたのに、材料と職人がいない。
観光客が来ても泊まるところがない。民宿の半数が流された。五輪の外国人観光客を誘致したい。

夜は宮古で講演。