1月22日

田野畑村・本家旅館畠山照子さんの話
うちには三好達治、深田久弥、吉村昭さんがいらっしゃいました。吉村さんはそのうち羅賀ホテルの方に行くようになった。うちの親父(ご主人)は畠山栄一といって、厳しい人でした。娘が上机という田野畑の村長の家に嫁いでますけどね。私は1926年に宮古に生まれて、女学校でて3月27日に代用教員になって4月に赴任してきたの。羅賀国民学校ってね。250人生徒が居て、もうこのへん自給自足しかないもの、食糧難で、配給は一人2合五せきだった。僻地手当なんてなかったかな。昭和18年だった。私の給料は年に370円、月給が18歳で30円だった。生徒と3歳しか違わないの。そのころは帳面もペンもなくて教科書もろくになかった。
そのころここは陸の孤島で、どこに行くのも思案坂、辞職坂とかいって、坂を上るたびに、こんなところにいていいものやら考え考え歩きました。
病院は尾本にあって、入院する時は布団やなべかまも持っていた。米軍が海から艦砲射撃をしてねえ。監視厰というのがあるからね。鉄砲玉を子どもたちが拾って。
ひどい山ばっかりでねえ。岩泉でよく会合があったけど朝7時に出て泣きっ面峠を越え、山道を一人で5時間歩いていた。盛岡に行くにも、夜も寝ないで歩いたり。それで体が丈夫なのかもしれない。
うちのおじいさんは八戸の中学でて、高等商業でて終戦のころは上海の武装部隊に居て、帰ってきた。宮沢賢治の思想にかぶれて帰ってきた親不孝もんなの。そのまま会社員になればいいのに、帰ってきて、炭焼いたりしたからもっと親不幸。
21年の11月28日に結婚したの。だって、お国のために勝つため勝つためと教えたので、もう教員はできないって。いままでと真反対のことを教えるなんてできないでしょ。本の好きな人で八戸で勝った本を何百冊も持ていたから、その本が読みたくて、嫁にきたようなもんよ。この家はたくさん土地を持って地代だけでやって行けるような家だったけど、終戦後は農地解放でずいぶんなくしたんじゃないか。おやじさんはそれから漁業組合を立ち上げていろいろ働いたし。今度の震災なんていいよ。ボランティアは来てくれるし、物資はもらえるし。昭和8年の津波のときは何の支援もなかったとうちのオヤジはいってた。目撃しているから、ずっと津波の話ばかりして、吉村先生初めみんなを案内したけど、津波を見ずに亡くなったのはよかったかもね。
昭和28年に今の高台に上がって旅館を始めた。昔はこの辺でも芝居小屋やテニスコート、銀行もあった。それが昭和8年に一晩で流されたって。津波が来たら、いのちはてんでんこというのは本当だね。チリ地震の津波は私も見たけど、沖まで海が引いて、宿にお客もいたし。海の底が見えた。今回、大船渡が6メートルの津波といった。ラジオを持ち出して、1人で最後まで居た。そしたらどこからか「本家の奥さん来ねば」と呼びにきて、広間の上から真っ黒な水しぶきが見えた。平成8年にやり替えたけど、明治のままの弱い石垣だったらやられていたに違いない。
この辺は海辺なのであたたかいの。夏は涼しいしいいとこですよ。どんこ鍋をごちそうできればよかったのに。予約があればどんこも入れるんだけどね、今度ぜひ泊まりにきてくださいね、といっておそばを作ってくださった。

田野畑村役場
吉村昭「星への旅」の色紙。役場の人の話。「復興計画はあるが職員不足。復興住宅ももうできていなければならないが、話し合いをすればするほど遅れていく。二度の大津波でそれを想定していろんな防災計画は持っていたが、津波をなめてた。
前の村長は手腕のある人で4期やったが、腕が良すぎて、住民が無視されたと思ったのかも。2割は自主再建を進めている。小館の移転団地と復興公営住宅、入札が不調。
番屋はJRが設計してサポーターも交付金もついたのに、材料と職人がいない。
観光客が来ても泊まるところがない。民宿の半数が流された。五輪の外国人観光客を誘致したい。

夜は宮古で講演。