2013年11月 のアーカイブ

10月15日 蔵の町村田の状況

2013年11月8日 金曜日
宮城県村田町で聞いた話。
ここは近江商人が最上川を使って紅花を運ぶための集散地として出来た。
大沼家の一族が多く、立派な蔵作りが軒をならべ、伝建の調査もはいった。
私は前にも何度か、訪れて話を聞いたり文化庁の人にもぜひ見てくれとお願いしたりしている。
3・11で蔵が相当壊された。時限付きでただで壊してくれるというので。とくに表より裏に会った蔵が壊されたのは一本裏の通りで見るとよくわかる。
残したくても、蔵の壁が落ちる、瓦が落ちて危ないと近隣にいわれて決断した。
自分のところは自費で300万かかった。
町に寄付してあった大沼本家の店は2200万かけて直した。
今は裏の古賀政男が戦時中滞在した家を修復中。
自分のところも蔵2棟壊したので、災い転じて福となすつもりで、宮城大学の協力をえて、中のものを整理して蔵のミニ博物館を作った。

宮城県村田町で聞いた話。

ここは近江商人が最上川を使って紅花を運ぶための集散地として出来た。

大沼家の一族が多く、立派な蔵作りが軒をならべ、伝建の調査もはいった。

私は前にも何度か、訪れて話を聞いたり文化庁の人にもぜひ見てくれとお願いしたりしている。

3・11で蔵が相当壊された。時限付きでただで壊してくれるというので。とくに表より裏に会った蔵が壊されたのは一本裏の通りで見るとよくわかる。

残したくても、蔵の壁が落ちる、瓦が落ちて危ないと近隣にいわれて決断した。

自分のところは自費で300万かかった。

町に寄付してあった大沼本家の店は2200万かけて直した。

今は裏の古賀政男が戦時中滞在した家を修復中。

自分のところも蔵2棟壊したので、災い転じて福となすつもりで、宮城大学の協力をえて、中のものを整理して蔵のミニ博物館を作った。

10月14日 ふるさと丸森の状況

2013年11月8日 金曜日
もうあくせくは働かないことに決めたので、午後の新幹線で白石蔵王へ。友人夫妻と車で東根のサクランボ温泉高橋旅館へ。丸森の状況を聞いた。
町民には精神的被害への弔慰金として子ども20万、大人4万が配られた。
子どもたちは外部被爆をはかるパッチをつけている。
除染によって子どもの遊ぶ場、校庭や公園は除染されて線量は低くなった。
タケノコは山野草の反中なので未だに出荷停止。
干し大根や柿は作って売っている。
葉ものなどは出ないが、高齢でやる気もなくなり、直売場などにだすのをやめた人もおり、品薄。
チーズ作りに夢を描いたIさんも廃業してチーズ作りの道具をひとにゆずった。
町営牧場のセシウムが基準を超えた事から町の牧草でなく、輸入の牧草がただで配られる。お年寄りで牛を飼っている人の中には草を刈らずにすんで楽という話も。
若手ではヘルパーの資格を取ってデイケアはじめ福祉事業を興そうとしている。高齢化がすすむ過疎地では必要とされている。
福島の人は県境を超えるとほっとするらしいが、私達は山形へ来るとほっとする。(直売場の客も前は仙台あたりだったがいまは福島ナンバー)
原発で潤っていた双葉や大熊はともかく、何も原発マネーがこなかった飯館はかわいそう。計画的避難区域の人たちはもう帰れるとは思っていないだろう。
早く決定して、これからの人生の計画が立てられるようにしてあげたほうがいい。
福島の計画的避難地域の住民には一人10万づつ出ているが
5人家族で50万というのは普通、農家ではかんがえられない収入なので、金遣いが荒くなっている人もいる。一人30万ずつ配れといっている住民も居る。
こうなるとお年寄りにも元気で居てもらわなくてはいけないと急に扱いがよくなった。
それ以外の地域から自主避難した人には一銭もでない。あまりに格差がある。

もうあくせくは働かないことに決めたので、午後の新幹線で白石蔵王へ。友人夫妻と車で東根のサクランボ温泉高橋旅館へ。丸森の状況を聞いた。

町民には精神的被害への弔慰金として子ども20万、大人4万が配られた。

子どもたちは外部被爆をはかるパッチをつけている。

除染によって子どもの遊ぶ場、校庭や公園は除染されて線量は低くなった。

タケノコは山野草の反中なので未だに出荷停止。

干し大根や柿は作って売っている。

葉ものなどは出ないが、高齢でやる気もなくなり、直売場などにだすのをやめた人もおり、品薄。

チーズ作りに夢を描いたIさんも廃業してチーズ作りの道具をひとにゆずった。

町営牧場のセシウムが基準を超えた事から町の牧草でなく、輸入の牧草がただで配られる。お年寄りで牛を飼っている人の中には草を刈らずにすんで楽という話も。

若手ではヘルパーの資格を取ってデイケアはじめ福祉事業を興そうとしている。高齢化がすすむ過疎地では必要とされている。

福島の人は県境を超えるとほっとするらしいが、私達は山形へ来るとほっとする。(直売場の客も前は仙台あたりだったがいまは福島ナンバー)

原発で潤っていた双葉や大熊はともかく、何も原発マネーがこなかった飯館はかわいそう。計画的避難区域の人たちはもう帰れるとは思っていないだろう。

早く決定して、これからの人生の計画が立てられるようにしてあげたほうがいい。

福島の計画的避難地域の住民には一人10万づつ出ているが

5人家族で50万というのは普通、農家ではかんがえられない収入なので、金遣いが荒くなっている人もいる。一人30万ずつ配れといっている住民も居る。

こうなるとお年寄りにも元気で居てもらわなくてはいけないと急に扱いがよくなった。

それ以外の地域から自主避難した人には一銭もでない。あまりに格差がある。

10月13日 アイヌ民族について

2013年11月8日 金曜日

今日も一日、アイヌ民族について調べたり読んだりしている。自分にはそれほど近いテーマではないが、北海道の人と結婚するとき、友人に「まさかお相手はアイヌではないでしょうね」といわれ、びっくりした。たしかに彼は眉も太いし、色も黒くてひげ面だった。私はそんなことを考えたこともなかったし、彼に聞く必要はなかった。「純粋のアイヌなんていまはいないんでしょう」といった問いにも何ともいえない違和感がある、とアイヌの女性は書いている。私もうっかりそんなことをいってしまいそうだ。マレーシアに行った時、まるでフランス人やイギリス人みたいにみえるマレーシア人にあった。かれらはマレー語やイヴァン語しか話せないという。そういうときはまごまごしてしまう。

10月12日 人気ドラマ

2013年11月8日 金曜日

いろいろ外出の用があるが、時差ぼけで無理。「半沢直樹」というドラマを見る機会があった。銀行員という仕事を相当誇張して、行内派閥や不正融資などのテンポあるドラマに仕立てている。それにしても半沢のしていることもほとんど法律違反のレッドカード。自分の目的のためには手段を選ばず。とくに銀行員のおくさま同士の鞘当ては気持ち悪い。同じような話を友達から聞くけど、一流企業戦士の妻にならなくてよかったとつくづくほっとする。いいご身分ね、とは思うけど。

10月11日 山口百恵漬け

2013年11月8日 金曜日
大学の恩師藤原保信先生がゼミのコンパでは山口百恵の「一夏の経験」などを恥ずかしそうに歌い、みんなで爆笑したのを思い出す。それで山口百恵のYouTubeにはまってしまい、歌はもちろんインタビューまで見て、あらためてなんと早熟で賢く品のいいタレントだったか、と思う。美空ひばりや宮沢りえにいるステージママが居なかったのも幸いだ。誠実な男を選ぶ眼力があった。結婚は恋愛の墓場でもないらしい。彼女が婚約した時、これで女性解放は10年遅れるといった人がいたけど、そんな事は知っちゃいない、彼女なりのいい選択をしたと思う。夫君も重厚ないい役者になったし。

大学の恩師藤原保信先生がゼミのコンパでは山口百恵の「一夏の経験」などを恥ずかしそうに歌い、みんなで爆笑したのを思い出す。それで山口百恵のYouTubeにはまってしまい、歌はもちろんインタビューまで見て、あらためてなんと早熟で賢く品のいいタレントだったか、と思う。美空ひばりや宮沢りえにいるステージママが居なかったのも幸いだ。誠実な男を選ぶ眼力があった。結婚は恋愛の墓場でもないらしい。彼女が婚約した時、これで女性解放は10年遅れるといった人がいたけど、そんな事は知っちゃいない、彼女なりのいい選択をしたと思う。夫君も重厚ないい役者になったし。

10月10日 思い出すこといろいろ

2013年11月8日 金曜日
イスタンブールからのトルコ航空に時間遅れで到着。家に帰り、一日メールチェックや新聞読み。山崎豊子さんがなくなった。映画でしか知っていないが、「ぼんち」の「ご苦労でおました」という一言は忘れられない。
藤圭子さんの目の不自由な両親が昔谷中あたりで門付をしていたことは何人からか聞いたが、谷根千には書かなかった。藤圭子さんがなくなってからたくさんの記事で見かけた。千石規子さんもなくなられたが、谷中の寺の住職婦人だったはずである。鳩山安子さんには取材に行ったが、「木曜日は気分が憂鬱。女性週刊誌に由起夫と邦夫が仲が悪いとか女性問題とか、今週は出てないかしらって」と悩んでおられた。このとき古河男爵夫人にもお話を聞いたが、安子さんとはお友達だといっておられた。「よくお電話でおたがいの無事を確認するんですの」と旧華族らしいイントネーションで話された。このかたもなくなられたと息子さんに聞いた。
そういえば「青鞜」に関係ないからと最後は削ってしまったが、若い燕の奥村博史がいったん去った後、平塚らいてうの心に滑り込んできた東雲堂若主人西村陽吉は長嶋茂雄夫人の祖父である。

イスタンブールからのトルコ航空に時間遅れで到着。家に帰り、一日メールチェックや新聞読み。山崎豊子さんがなくなった。映画でしか知っていないが、「ぼんち」の「ご苦労でおました」という一言は忘れられない。

藤圭子さんの目の不自由な両親が昔谷中あたりで門付をしていたことは何人からか聞いたが、谷根千には書かなかった。藤圭子さんがなくなってからたくさんの記事で見かけた。千石規子さんもなくなられたが、谷中の寺の住職婦人だったはずである。鳩山安子さんには取材に行ったが、「木曜日は気分が憂鬱。女性週刊誌に由起夫と邦夫が仲が悪いとか女性問題とか、今週は出てないかしらって」と悩んでおられた。このとき古河男爵夫人にもお話を聞いたが、安子さんとはお友達だといっておられた。「よくお電話でおたがいの無事を確認するんですの」と旧華族らしいイントネーションで話された。このかたもなくなられたと息子さんに聞いた。

そういえば「青鞜」に関係ないからと最後は削ってしまったが、若い燕の奥村博史がいったん去った後、平塚らいてうの心に滑り込んできた東雲堂若主人西村陽吉は長嶋茂雄夫人の祖父である。