2013年4月 のアーカイブ

3月3日

2013年4月3日 水曜日

28日に粟島のタラで友人宅でバスク料理をご馳走になった。現地での刺身やナベもおいしいが洋風にしてもまた。大井町ってまず行くことがないが、とてもすみやすそうな庶民的な町で、また行きたい。井の中の蛙、谷根千しか知らず。そのとき肝もおいしかったが、白子を沢山貰い、臭みを抜いてからまずは和風の吸い物を造り、次は酒と片栗粉を振ってバタ焼きにし、最後はバスク風にニンニク唐辛子とねぎ・シイタケのざくぎりをいれてスープにしてぶっかけご飯にしたら超うまかった。どれもでたらめレシピ。

3月2日

2013年4月3日 水曜日

西川さんの「谷中の家」でこのところ月一原発映画祭をやっている。地域から地道に原発問題を考えていく試み、映画を見て、関係者の話も聞いて、カフェタイムに質疑応答をする。きょうはもと福島民友記者だった医療ジャーナリストの藍原寛子さんが福島の子どもたちのいま、を写真や動画を交えて語ってくれた。2012年5月くらいから。「校庭で表土を削るそばでマスクの子どもたち」「削った土はフレコンバッグに入れて地下にあるいはシートをかぶせてそのまま」「福島大付属幼稚園は園児が急減」「朝鮮初中学校の児童・生徒は新潟にそっくり避難」「保養は障害児の受入れほとんどなし」「地元スーパーの放射線測定も地元メディア取りあげず」「毛髪や乳歯の保存運動はじまる」「原発賠償で古民家はほとんど価値ゼロの評価」といった知らない事実、視点をずいぶん得ることができた。
会場からは「なぜ福島の人はおとなしいのか」「あんな目にあったのに福島で自民党がなぜ勝つのか」という声も。これに対し福島出身者から「戊辰でやられ、自由民権で弾圧され、抵抗すると偉い目に会うということが染み付いている土地柄。長いものにはまかれろ、太いものにはからまってろ、ということで今まで来た。贈収賄事件も多い」という意見も。
私も「子どもたちは避難させるべきだと最初思ったが、そういうと反発される。保養と言い替えても親の理解や余裕で保養に行ける子と行けない子がいる状況はどうしたらいいのか」と聞いてみた。藍原さんの答え。「福島の人々はものすごく傷ついているので、ちょっとしたことに人生全部を否定されたように感じて反発する。まずこの土地はいいところだったんだよ、ということを認め、そこから話を始めないと」。司会の植松明子さんより「伊達市は学校全体で新潟へ移動教室を広め、これなら親が避難するかしないか、という苦しい判断をしなくてすむ。こういう取り組みが広がっていけば」。私の行く石巻でもみな「ここはとてもいいところだったんだよ」という。それを聞くことから話が始まるのに、原発については「早く避難してほしい」という気持ちが先に立つ。「そこにいるあなた、ここにいるわたしを承認する」「分断の世界から立ち去る」というのが藍原さんの提案。わたしは苦しいけど差別や分断があることを認めてそれと向き合うことが大事だと考えるが。
劇団銅鑼の40周年『からまる法則』を見に行く。六本木俳優座劇場で満員。
うーむ、一言で感想を云えないような。

3月1日

2013年4月3日 水曜日

谷根千郷土史!『青鞜』創刊号に広告を出している東盛銀行の社長、牧田義雄は明治44年ころ、千駄木林町で楽牛園なる牛乳製造業を営んでいた。広告も地縁に寄るものか、と思ったが、インターネットで見ると、『慶応義塾者出身名流列伝』のPDFにぶつかった。
それによると、牧田義雄は嘉永2年生まれ、掛川藩士石高13石、太田氏の近侍をつとめ、15歳で安井息件の塾に入り、廃藩置県後、洋学の必要を感じて慶応義塾に学び、横浜で英語を学んだ。仕官をすすめられても独立自尊の精神が強く、一頭の牛を飼うことから牧牛業を始め、「三千の乳牛を有して我が国生乳界に重きを為すに至り」とある。それも母牛が病気で死んだり、その頃は牛乳を飲む人も少なく、大変な苦労をしたが、明治18年に帝国大学病院や巣鴨脳病院などで患者の飲用に採用されて広まった。しかし本土で餌の草が取れないので伊豆大島に一大牧場を作る。また本郷区議会、東京府議会の議員を勤め、その硬骨漢ぶりと情誼に厚いことで知られる。
ざっとこういう伝。
興味深いのは千駄木町に掛川藩主・太田氏の館があったことと牧田牧場がその隣接する林町にあることが関係あるのか? 千駄木御林といわれる雑木林を切り開いて牧田牧場ができたのか? 安井息件の墓も近くの養源寺にあるが、それと塾との関係は。牛乳奨励をリードしたのは福沢諭吉だがそれとの関係は、など興味はつきない。