朝から順天堂で、脳の血流検査、MRIの検査、淡々とこなす。それにしてもこの病院、中が迷路のようで分りにくい。前にきたときの血液検査の結果もでた。親切でにこやかな新井先生は「この前は5年前ですね。そのわりに脳も萎縮していないし、なに一つ異常がありません」。そのあとに「お酒は控えた方がいいでしょう。アルコール性健忘症というのがありますから」、たぶん私の物忘れはそれに違いない。でもその夕べ、『震災日録』の打ち上げで人形町笹新で新潟の山古志を飲んでしまいました。
‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ
5月27日
2013年6月24日 月曜日5月26日
2013年6月24日 月曜日朝からワークショップやシンポジウム。住民よりも研究者やコンサルタントなどが多く、しかも前の方に彼らが座っているのが気になった。住民が主役のはずだから前に座ってもらったらどうか、と余分なことを言ったが、宮城の人々は遠慮深くて恥ずかしがりなようで、無理に前の席を勧めると帰ってしまいそうだ。
行政は海辺には町を放棄して、第六次産業化をすすめるプランを描いている。いわくメガソーラーとか、水産加工とか。そうした巨大で金のかかりそうな、あまりよく考えられてもいない行政プランに、同じような完成されたプランで対抗しても意味はないだろう。貴田さんという方が10平米の小さなコヤを建て、木造のデッキに椅子を並べ、ピザ釜を作って住民の語らいの場にしていらした。こうした小さくて工夫にとんだ試みが私の考える「もう一度ここで」のまさにイメージだ。あまりきれいで理想的なプランを語る人がいると「何度も考え直せばいいんだよね」と思わず隣りの結城登美雄さんにつぶやいてしまった。「そういうことです」と結城さん。震災復興は絵に描いた餅でなく、試行錯誤と臨機応変で行くしかない。
5月25日
2013年6月24日 月曜日朝、高野博さんの案内で、初めて陸から女川原発を見る。まえ金華山ゆきの船の中からとおくに望んだ。そのくらい集落からは外れた山陰にある。
午後、荒浜フォーラムに出席、震災当日、宮城県警発表で荒浜で200人の遺体発見とのニュースに驚いたものだが、あれは誤報だったようだ。それにしても仙台市は、山の方は山形市と境界を接し、荒浜には海がある。政令指定都市だけど自然もゆたか。ビル街から15分も走れば海水浴ができたのだ。ここはNHKのドキュメンタリー『イナサ』『イグネ』の舞台。イグネという屋敷林に囲まれた昔ながらの豊かな暮らし、イナサと呼ばれる夏の風に呼応した漁師たちの暮らしがあった。津波はそれを根こそぎにした。松林はすこしばかりのこり、伊達政宗の土木事業貞山堀が海と並行に走る。これは海上が時化のさいにも安全に物資を運ぶためのものであった。
仙台市はここを災害危険地域に指定して、再建築不可としているが、ここに戻りたいという住民二十数世帯が黄色いハンカチをはためかせて、残る意志を示している。
5月24日
2013年6月24日 月曜日朝の新幹線で石巻へ。松島で『女性のひろば』記者と落合い、門脇小学校など見学の後、北上町の熊谷さんのところでムール貝をご馳走になり、「ここち」で玉置浩二の若いころのような主人のおいしい料理を食べ、エルファロに泊まる。女川町議の高野さん、忙しいのに夜、話をしに来てくださる。福一は非常用電源を低いところにおいていたからだめだったが、女川は安全だった、というわけでもないいろいろなことを聞く。
5月23日
2013年6月24日 月曜日『青鞜』辛酸、佳境にはいる。あんまり私が直すので、「永久革命はやめてください」と編集者ぽんちゃんの悲鳴、もうあとがき、参考文献、年表、生没年などに集中する。嫌いな人のことは書けないからなあ、いろんなところにあきれ、絶句しながら、やっぱりらいてうは群を抜いた地勢だとうならざるをえない。
5月22日
2013年6月24日 月曜日夕方、本郷の真理ちゃんの家で、多児貞子さんを囲む会あり。岡山のおいしい魚やいろんな料理が並んだ。5時からちびちびやっていたら遅いお客さんが来るころには私は寝てしまっていた。
5月21日
2013年6月24日 月曜日半藤一利さんにお誘いを受けて大相撲を見に行く。初めて枡席で見る。力士のぶつかるおとも聞こえ、臨場感甚だしいが、とにかくあの狭い升に座ってみることがつらい。そこにビールに空豆も運ばれて来る。お土産はあんみつ、焼き鳥、甘栗にチョコレートで持って帰ったら家族が喜ぶものばかり。帰りは隅田川を船で浅草にでて、しぶやで半藤さんの誕生日祝い。きょうの三人は皆ウマドシでありました。
5月20日
2013年6月24日 月曜日沖縄からお客さま、案内しているとまたあちこち、町の変貌が見えてがっかり。ことに観音寺の登録文化財の塀の真ん前にヘーベルハウスが新築中。
5月19日
2013年6月24日 月曜日日曜日、それも三社祭の日に浅草で漱石について語る。いい聴衆で話しやすかった。
今は『青鞜の冒険』出頭がいっぱいな訳だが、そういえば漱石の『三四郎』の美穪子は平塚らいてうがモデルだから、そこから話を始めることにした。弟子の森田草平が平塚はると問題を起こしたとき、漱石先生は平塚家に後始末の挨拶にいって「必ず近い将来、令嬢に結婚を申し込ませる」などと言っている。森田草平は妻子がいたのにだ。さらに「この男は事件のせいで中学教師の職を失ったので、小説を書いていきていくしか無い」と事件をモデル小説にすることの了承を求める。こういうやり方に平塚らいてうは生涯軽蔑感をもっていた。「違う、私の望んでいるのはそんなことじゃない」と言いたかったであろう。
5月18日
2013年6月24日 月曜日5月18日
午後三時まで集中して『青鞜の冒険』の再校。そして宮永会館でリカーズのだやさん主宰の日本のワインを応援する会。木次乳業の奥出雲ワイナリーについて。飲み過ぎ、食べ過ぎの一日。反省。