震災日録 3月11日 紫のヒヤシンス

真理ちゃんにもらった白いヒヤシンスが終わりかけた頃、紫のヒヤシンスが咲き始めた。去年、真理ちゃんにもらったもの。こんどはカイドウのつぼみが開きそう。でも去年はピンクだったのに今年は白い。なぜ?
今日は震災の一周忌。自分に取っても生涯最大の事件だった。そのとき聞いた話を、感じたことを誰か、書き留めておかなければと毎日、ブログを書いて来た。言葉の持つ意味が人によって違うこと、いる場所や立つ場所で違うように響くこと、言葉を使うことのおそれ、怒り、かなしみ、とまどいのなかで、おろおろと書いて来た。あとから読み直せば間違ったことも多々あるだろう。例えば高台移転を昨年の4月頃はイタリアみたいな美しく楽しそうな町ができるかも、と期待したが、仮設ビジネスのあと、いまや高台移転はゼネコンの商売になり、住民の合意や討論がないまますすめられそうだ。行政のつごうで拙速に結論を出さない方がいいと思っている。それに盛り土の市街地は果たして安心か?
除染についても移染にすぎず、除染ビジネスをもうけさせるだけという実態をみると避難の方が先ではないかとも思う。『世界』でいま読んだばかりだが、神戸の震災に投下された金は9割、県外に流出したそうだ。
今朝の東京新聞、伊集院静さんは、いま東北では今日も明日も葬式がつづく、祈り続けている人がいること、この震災がまだ続いていることをわかっておいてほしい、という文だった。
そうだろうと思う。悲しみや喪失感をお酒やカラオケに癒すことも大事だろう。私もそうしているように。でも飲み過ぎたら、心配だよ。
いますぐ立ち直れというのはとうてい無理だ。でもなには遅すぎて、なには急いではいけないのだろう。考える。住民が立ち上がろうとしているのを支えるのは早く。地域に雇用がうまれ、地元に金が落ちることは早く。住民間の格差を是正することは早く。でも……そうなっていないような。
東北の人々がゆっくり悲しみ、祈っている間にも原発は早く止めなくてはならない。今がチャンスだし、チャンスの女神は後ろ髪がない、とマキャベリはいった。
悲しみや落胆だけを(短調の静かな音楽や見出しをつけて)強調するメディアにも違和感がある。私の出会った東北人たちはけっこう冗談もいい、まるで映画のように津波の冒険談を語り、元気に新しい仕事を作ってもいた。私こそどんなに励まされたかわからない。「津波で家を流されて、これで地域の付き合いや契約もやめて、大嫌いな故郷を離れられますね!」と大笑いした人もいる。人はいろいろ。気もかわる。これからも東北へ通う(来るなと言われない限り)とおもうが、毎日ブログを書くのはここで終わりとします。長い間、このブログを読んでくださった方へ、ありがとうございました。