震災日録 5月19日 ガンボロー

松柏館はインターネットでは湯本温泉のなかでも高評価を得ており、主人は比佐氏、昔の本陣だ。宮尾しげをや田中比佐良の絵がある。戦時中は中野区の啓明小学校が集団疎開していたとか。戦後、高松宮妃が泊まったこともある。通された部屋は一階で広い庭に面していた。朝、庭に出ると石灯籠が倒れている。藤棚の藤が見事だ。支配人は「こんな小さな宿でも43人、従業員がいたんですが、震災後、設備も壊れお客が少なくて13人でやっています」という。営業していない旅館もかなりある。お父さんは常磐炭坑で働き「上がってくると毎日温泉に入って、それをあたりまえに思っていました。今思えば贅沢な話ですよね」という。常磐炭坑は宮嶋資夫「坑夫」にも描かれている。宿の裏には登録文化財のすばらしい映画館があった。

朝に小名浜港に入っている原発汚水処理船メガフロートを観に行って、9時にモスクに到着。今日は南の森にカレー。コックのマクブルさんは「わたし、2週間ずっと日本人にご飯作る。お金ないだから体だけサービス」となんども言う。きのうは配食しながら「食べないと体、元気ないよ。いっぱい食べてガンボロー」といっていた。働きながらも時々しゃがれ声で「ガンボロー」とさけび、私たちも唱和する。こういう時のガンバロウは元気が出る。

サニーレタスを10個とレタスを20個買ってこいという。そんなにいるのかな。安くて品物がいい店を探す。買物にも時間がかかる。買ってくると真ん中の芯のところをぼかっと叩いてとってしまい、外の皮を何枚もむき、固いところや茶色いところを取って洗ってちぎれという。主婦からするともったいない千万だが、しきるのはマクブルさん。「日本人、目で食べる。茶色い葉、だめ。堅いのもだめ」という。たしかに。サラダがしおれていてはまずい。多いのはまだしも、足りなくては困る。100人分というのが実感がわかない。カレーの野菜の切りかたにも彼なりの流儀があり、いわれたとおりやらないとちょっとおかんむり。「むいて、クイックリー」としかられる。私から見ると油の入れすぎだと思うんだけどなあ。

1時に作業は終わり、地域紙仲間の「日々の新聞」を平競輪場近くに訪ねる。安竜さんと大越さんの話は映像で撮ったのでそのうち。「がんばっぺいわき」「がんばれ東北」の翼賛ムード、原発の放射能の過小評価にもあらがって取材活動を続けている。4時ころ文京区からボランティアの加藤さんが2ヶ月居続ける平工業高校へ。

ここのようすも映像で。避難所が閉鎖になったあと、1人暮らしに戻るお年寄りが心配だという。

カレーとサラダは南の森へ。98人。私たちは江名小学校60人へ手伝いにいく。ラジャさんの友だちの若い女性が筑前煮を作ってくれた。それとご飯、サラダ、りんご、オレンジ、野菜ジュースなど。かなり避難者は減って大きな立派な体育館にぽつりぽつり。乳幼児4人を持つお母さんもいる。聞くとご主人は入院中だそうだ。障害を持つ子どもさんもいて心配。「あの日から人生が変わってしまった」というひとも。この日、大塚モスクからアキルさんが新しいコックさんを連れてきて、マクブルさんは帰ることに。なんでいわきに来るんですか、とアキルさんに聞くと「東京から近いし、モスクはあるし、人がいきたがらないから」と簡単明瞭。車が故障したことを「車が病気になった」というのも面白い。7時に終わったので、安竜さんたちとまた意見交換。たった1人でいわきで放射能から子どもを守るママたちのデモを実現させた鈴木薫さんの話を聞いた。これもそのうち映像で。政府・文科省は勝手に子どもを含め放射能の被ばくの上限を20ミリシーベルトに引き上げたが、公表されている放射線量の測り方にも疑問があるし、原発労働者で7ミリシーベルトで発ガンした例もあり、子どもたちを早く福島から避難させたい。といってもみんな何らかの事情と都合の中に生きており、避難所の乳幼児を見ると親に「はやく逃げて」といいたくなるが、とうてい言える状況にはない。