朝、島村奈津さんを空港へ送って、九大によって熊本に着いたら昼過ぎ。黒亭でこゆいラーメン。九州へ来るとなんだか毎日ラーメンでもいいくらい。そこから天草へ。とちゅうみかんやデコポンを仕入れる。海だ海だ!よる、丸尾焼きの金沢さん夫妻と蛇の目寿司へ。遠藤周作「沈黙」の話など。しきりと天草出身の倉本四郎が思い起こされる。あ、もしかして天草四郎から取ったペンネームだったのかも。子供の頃、昔話をかたるおばあさんがみんなを集め、まず着物の裾をはだけて「これをみい」と秘所を見せてからは話しはじめたというすごい話だった。小山薫堂さんも天草出身で祖先は小山秀之進といってなんかすごい人だったらしい。
2010年4月 のアーカイブ
3月22日
2010年4月9日 金曜日3月21日
2010年4月9日 金曜日九州大学の西山さん、宮本先生が退官されるので記念シンポジウムに招かれる。朝、6時半の段階では私の乗る8時半の便は飛ぶはずだったが、羽田に行くと飛ばない。ものすごい行列。天災だから仕方がないが、そのあとのJALの対応はひどかった。今から新幹線で6時間では間に合わないので、とりあえず主宰者に電話を入れ、12時半の便の予約をゲット。しかしできれば9時半、10時、10時半など少しでも前の便に載りたい。仕事の講演で向こうで人が待っている、ということでは優先されなかった。それはよいとしても各便の空席待ちをばらばらの場所でしろといったり、便は軒並み遅れ、ゲートはアナウンスもなく変更され、地上係員はみんな殺気立っている。ちゃんとアナウンスがないので乗客はひとリずつ係員を捕まえては同じことを聞いて冷たくあしらわれる。JALはたしかに落ち目だなあ。さらに普通のときなら空席待ちにサファイア会員とかを優先するのは認めるが、みんな正規の切符を持っており、天災で行けなくて困っているときにあとから来たサファイア会員を優先するのは解せない。どうせ自分の金でなく会社や税金で乗っている人が多いのに。しごとで乗ったマイレージは返せという会社もあるという。一理あると思う。
とにかく出番ぎりぎりの2時半、到着。シンポジウムは満員。懇親会では地元のおいしい料理。それから西山先生の知っている店でオコゼの刺身で一杯。さらに屋台でラーメンという空恐ろしいコースとなった。でも鳥繁なる屋台、ここのラーメンのつゆは今までで一番おいしかった。スローフードの紹介者島村奈津さん、スープ飲み干す。その意気やよし。初めてあったとは思えないほど共通の知り合いがいた。友人藤原さんちに泊まるよ、とさそうと私もと来てくれた。すぐ二人泊めてくれた藤原さん夫妻もすごい。融通無碍、臨機応変、そこから友情が産まれる。
3月20日
2010年4月9日 金曜日明日から5日いないので仕事片付ける。ちくま、サライ、東京人など。よる、蔵で「小さな映画会」。文京区所蔵の16ミリフィルムをはじから見る会。今日はフィルム缶製造の足柄製作所の方が来て、フジフィルム工場あたりの昔と今の映像も見せてくれた。ヤマサキ、さっそくフィルム缶製造がしたくなり、工女になりたいと売り込む。寒いのでホットワインやコーンスープを飲みつつ見る。
3月19日
2010年4月5日 月曜日昼、本所わくい亭追加取材。この店に出くわしたのは山本明子と三遊亭円朝の取材に歩いていたとき。近くにあったら毎日でも来たい。そのくらい酒のつまみが充実して値段がリーズナブル。そのあと江戸東京博のモンゴル展を見て、夜は坂本真典さんの古希の会。千駄木「彬」で。坂本さんとは平凡社の「太陽」「婦人公論」「日本の名湯」などたくさんの仕事を共にした。相変わらずジョークばかりで「うちの愛子が不登校で困っちゃうよ」なんていってる。息子さんはなんと龍馬。で、主婦の友社の期間限定雑誌「RYOMA」の編集長になられたらしい。お父さんの命名は重荷ではなかったらしく、そのまた娘につけた名が「おりょう」だそうだ。メンバーがとってもよく、楽しい一夜だった。
3月18日
2010年4月5日 月曜日朝、プール。午後銀座「あまくさ」追加取材。その後、アップルでパソコン直してもらう。ものすごいイケメンのお兄さんに親切にされて卒倒しそうだった。この前の人もいい感じだったし、アップルはやるな。
3月17日
2010年4月5日 月曜日今日も追加取材で神田の「のらぼー」。夕方、六本木の「開戦前夜」。 かえりにクローバーへよる。中学生の頃憧れたチーズケーキを買って帰る。アカデミー賞の授賞式を見る。イラク戦争を描いた女性の監督が監督賞を取ったが、イラクで闘っている兵士のみなさん、ありがとう的なスピーチはいただけない。爆撃されている方の身になってみろ。
3月16日
2010年4月5日 月曜日昼、寺島実郎さんの九段の文庫を訪ねる。日米安保については対等の国家として同盟関係や基地の返還を含め、交渉すべきという考えをお持ちで、アメリカのいうなりなジャーナリスト・学者よりいい。そのあと藤森照信さんの最終講義を駒場に聞きに行く。一時間ちょっとしか聞けなかったがさすがに行った意味がある内容の濃いものだった。夜御徒町で中島岳志さん、矢作多聞さんとインド料理店へ。寒いけどインドで買ったまっかなクルタに着替えました。インドから帰って以来、日本人はなんて地味でくらい色を着ているんだろう、と思ってしまう。
3月15日
2010年4月5日 月曜日帰りのJALでは「今度は愛妻家」「ゼロの焦点」はじめ4本見た。朝、7時着。この時間だとスカイライナーがない。帰ってさすがにぐったり。寝たり起きたりしながらFAX、郵便、メール、トランクの片付け。
3月14日
2010年4月5日 月曜日インド最後の日。プネの空港へ。デリーでは2、3時間あるので、車を雇って空港から20分くらいの所に有るファブ・インディアに行ったら手紡ぎ手織りの美しい布、マット、服を売っており、何年振りかで買物欲満開になってしまった。一時間くらいの間に試着して買った服、11着。ストールやクッションカバー、マットその他諸々で日本で絹のショールを一枚買うくらいの値段だ。といったら、サトコとヒロシに後で批判された。自国の貨幣価値に換算して安い、と思うのは傲慢である。その土地の人にとってどのくらいの値段なのかに換算せよ、と二人はいう。
3月13日
2010年4月5日 月曜日インドには何時、という約束がないのかもしれない。今日は一日暇なのでアーユルベーダのマッサージでも行ってみたらいいといっていた。ずっと待っていた。取り込み中だから遠慮していたが、4時になってさすがに電話した。あてにした店は休み、でも5時頃、従弟さんが車で送ってくれた。シロダラとかいうごま油を額に垂らすのを一度やってみたかったのだが、気持ちいいけど油をかなり熱して火傷するのではないかと思われた。額に垂らすのは人任せだし、あわや大惨事。油のこげる匂いでのどもやられた。そのままバクレ家へ。親族も半分は帰ってしまい、十人ほどで最後の晩餐。お母さんが私に深い緑色のサリーを下さった。お父さんにもじっと抱きしめていただいた。ホテルのマネージャーともとっても仲良くなったので別れるのがつらい。