菊池の軽トラ朝市を見学、いがぐり園でラーメン。講演会「地域の記憶を記録する~市民の物語を掌(てのひら)にまちを繕う~」。時間は1時間。若干の質疑応答あり。夕方は菊池レトロ館のれとろ食堂にて懇親交流宴。山奥に新しく出来た「岩蔵」(いわくら)へ。宿泊。大げさであまり私には会わない宿だった。
‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ
1月26日
2014年4月10日 木曜日1月25日
2014年4月10日 木曜日板橋の劇団銅鑼の稽古場で、「女三人のシベリア鉄道」のプレイベントがある。
林芙美子にも詳しい尾形明子さんが講演をしてくださるという。もったいないこと。著者が見えるとお話ししにくいだろうと出来るだけ後ろにすわりたかったが、劇団関係者に一番目立つところに案内されてしまった。瀬沼夏葉のシベリア鉄道の話などとっても面白かった。ロシア料理あり、ロシア民謡ありの盛りだくさんなイベント。しかし7時の便で九州に行かなくてはならず。
旧友、藤原恵洋・馨さんの新しい住まいに泊めていただく。福岡のネクサスでとなりはザハ・ハディドの師匠コールハース(ロックミュージシャンみたいな)と石山修武さんのマンションが建っていた。
1月24日
2014年4月10日 木曜日市川房枝記念婦選会館で新国立競技場計画について話す。各地の議員、市民運動の女性たち、日本で一番政治意識の高い方たちでも「知らなかった」との驚きの反応、さっそく署名集まる。元日経記者藤原房子さんや元国立市長上原公子さんも来場、賛同してくださる。心強いことである。
1月23日
2014年4月10日 木曜日名護市長選勝利万歳。
BPOでこの間、ご一緒したもとNHKの科学記者小出五郎さんの訃報。
いかにも急に亡くなられた。原発を扱った番組で警鐘を鳴らしておられたが、「わからないことはあおらない」という穏やかな姿勢が反原発の陣営から批判もされていた模様。11月には福島の放送局への出張もご一緒して、地方局のジャーナリストとにこやかに懇親されていたのに。お二人ともまだ70代のはなだ。こたえる。しかし最後まで見事に現役だったことをよしとするしかない。
竹富島では田中郁子さんが亡くなられた。さまざまな激動の人生を経て竹富島にIターンをして一生懸命働いていた郁子さん、もっとたくさんの時を共有したかった。
1月22日
2014年4月10日 木曜日田野畑村・本家旅館畠山照子さんの話
うちには三好達治、深田久弥、吉村昭さんがいらっしゃいました。吉村さんはそのうち羅賀ホテルの方に行くようになった。うちの親父(ご主人)は畠山栄一といって、厳しい人でした。娘が上机という田野畑の村長の家に嫁いでますけどね。私は1926年に宮古に生まれて、女学校でて3月27日に代用教員になって4月に赴任してきたの。羅賀国民学校ってね。250人生徒が居て、もうこのへん自給自足しかないもの、食糧難で、配給は一人2合五せきだった。僻地手当なんてなかったかな。昭和18年だった。私の給料は年に370円、月給が18歳で30円だった。生徒と3歳しか違わないの。そのころは帳面もペンもなくて教科書もろくになかった。
そのころここは陸の孤島で、どこに行くのも思案坂、辞職坂とかいって、坂を上るたびに、こんなところにいていいものやら考え考え歩きました。
病院は尾本にあって、入院する時は布団やなべかまも持っていた。米軍が海から艦砲射撃をしてねえ。監視厰というのがあるからね。鉄砲玉を子どもたちが拾って。
ひどい山ばっかりでねえ。岩泉でよく会合があったけど朝7時に出て泣きっ面峠を越え、山道を一人で5時間歩いていた。盛岡に行くにも、夜も寝ないで歩いたり。それで体が丈夫なのかもしれない。
うちのおじいさんは八戸の中学でて、高等商業でて終戦のころは上海の武装部隊に居て、帰ってきた。宮沢賢治の思想にかぶれて帰ってきた親不孝もんなの。そのまま会社員になればいいのに、帰ってきて、炭焼いたりしたからもっと親不幸。
21年の11月28日に結婚したの。だって、お国のために勝つため勝つためと教えたので、もう教員はできないって。いままでと真反対のことを教えるなんてできないでしょ。本の好きな人で八戸で勝った本を何百冊も持ていたから、その本が読みたくて、嫁にきたようなもんよ。この家はたくさん土地を持って地代だけでやって行けるような家だったけど、終戦後は農地解放でずいぶんなくしたんじゃないか。おやじさんはそれから漁業組合を立ち上げていろいろ働いたし。今度の震災なんていいよ。ボランティアは来てくれるし、物資はもらえるし。昭和8年の津波のときは何の支援もなかったとうちのオヤジはいってた。目撃しているから、ずっと津波の話ばかりして、吉村先生初めみんなを案内したけど、津波を見ずに亡くなったのはよかったかもね。
昭和28年に今の高台に上がって旅館を始めた。昔はこの辺でも芝居小屋やテニスコート、銀行もあった。それが昭和8年に一晩で流されたって。津波が来たら、いのちはてんでんこというのは本当だね。チリ地震の津波は私も見たけど、沖まで海が引いて、宿にお客もいたし。海の底が見えた。今回、大船渡が6メートルの津波といった。ラジオを持ち出して、1人で最後まで居た。そしたらどこからか「本家の奥さん来ねば」と呼びにきて、広間の上から真っ黒な水しぶきが見えた。平成8年にやり替えたけど、明治のままの弱い石垣だったらやられていたに違いない。
この辺は海辺なのであたたかいの。夏は涼しいしいいとこですよ。どんこ鍋をごちそうできればよかったのに。予約があればどんこも入れるんだけどね、今度ぜひ泊まりにきてくださいね、といっておそばを作ってくださった。
田野畑村役場
吉村昭「星への旅」の色紙。役場の人の話。「復興計画はあるが職員不足。復興住宅ももうできていなければならないが、話し合いをすればするほど遅れていく。二度の大津波でそれを想定していろんな防災計画は持っていたが、津波をなめてた。
前の村長は手腕のある人で4期やったが、腕が良すぎて、住民が無視されたと思ったのかも。2割は自主再建を進めている。小館の移転団地と復興公営住宅、入札が不調。
番屋はJRが設計してサポーターも交付金もついたのに、材料と職人がいない。
観光客が来ても泊まるところがない。民宿の半数が流された。五輪の外国人観光客を誘致したい。
夜は宮古で講演。
1月21日
2014年4月10日 木曜日多田屋旅館を出発、ラグカフェ。奇跡の7連勝を下新日鉄釜石の記憶をよみがえらせ2019年のラグビーワールドカップの予選をここでやりたい。1億くらいでできるんじゃないか、子どもたちのグラウンドとして使いたい、19年のワールドカップの予選をしたいという。鵜住居というところがいちばん犠牲者が多かった、まだ仮設の小中学校。
三浦命助の大きな碑。三閉伊百姓一揆の指導者、1万6000人を率い、49か条の要求を南藩に突きつけ、39か条を認めさせた。小○(困る)の旗。しかし二条家の臣として使えた時南部藩にとらわれ、獄死。
北上して大槌は町長以下、なくなった被害の大きな町。山田町は旭川のNPO大雪リバーネットがめちゃくちゃなお金の使い方をしたところ。岡田という35歳の理事長が、水難救助のふれこみで来て遺体捜索からやって、手がないので町長も信用して8億任せ、雇用促進などで風呂をつくったり、ベンツのトラックやアルマーニの制服を買って放漫経営、自分の義理の弟の旭川の講座に3000万円振り込む。現在刑事事件で係争中。しかし本当に町長や町の幹部は被害者だけなのだろうか?
宮古で近藤さんとあう。宮古の方が市街地が残っている。
常安寺は曹同宗の寺。ここのお坊さんが浄土ヶ浜の名付け親。
宮古湾海戦を記念する会がある。
幕府の艦隊はいったん横浜か横須賀に南下、闇夜にまぎれて北上。
宮古に石炭を補給しに入る。水と食料をつんで、函館へ。石炭がないので赤松をばさばさ切ってマキにした。鍬が崎には300件の遊郭があった。盛岡藩ので先の港。
土方や榎本も上陸。遊郭と料亭が混じっていた。請求金額以上の金を置いて行った。新政府軍はその後来て遊郭で遊んだがただ食い、ただのみ、ただ乗り。
回天一隻で8隻に挑んだ。もっと早くスパイが宮古に入ってきて、築山や遊郭にも居た。
回天は甲鉄に乗り上げて、3、4メートル飛び降りって戦った。高雄は田野畑で座礁、船を海辺で焼いて、そのままかくまって土着した船員も居る。
1月19日
2014年4月10日 木曜日朝、7時16分の新幹線。大宮でおおきな富士山を見る。コーヒーが出る。東京駅で買った弁当うまくない。
10時3分、雪の花巻着。花巻のまるかんデパートで巨大アイスクリームを食べる。文化タクシーに文化パーラーを見る。仙人峠の霊水。大橋鉄鉱山あと。1727年に盛岡藩士の阿部友之進が磁鉄鉱を発見。
宮沢賢治の詩碑。磁鉄鉱。唄貝というところを通る。大滝詠一が釜石出身だとか。
釜石市街着。小川マーケット。三重食堂でラーメン。美容室ヨシカワの盆栽。
新日鉄住金釜石は大企業で、あまり市民と交流しないとか。ノロの山。アラモの砦のようだ。駅前には釜石の鉄の父大島高任の銅像。
サンフィッシュとはマンボウのこと。
仮設商店街が売り上げなく、閉店続々とか。青葉公園商店街。
のんべえ横町は元からやっている人しかだせない。
ロキシタンが2012年4月25日に駄目になった公民館をさっときてさっと直してさっといなくなったとか。
避難道路を上がる。息を弾ませると当日は80以上の人も上がりましたとのこと。上から見る釜石。ほとんど町並みなし。遠くに見えるクレーン、自慢の防潮堤も何の役にも立たなかった。
鉄の科学館。佐々木館長の話。大島高任による橋野高炉は世界遺産の構成要件。九州と一緒に申請。鉄があることは藩政時代にわかった。江戸時代も4500人が働いていた。南部鉄瓶をつくる。大砲は砂鉄で作っていると弱い。磁鉄鉱を削り、それをまた砕いて、石炭を炊いて溶かし、ふいごで風を送り、製鉄する。盛岡藩士大島高任がドイツ人の本から反射炉を見よう見まねでつくる。
たたら製鉄では少ししかできない。
明治以後、田中‐米山‐三井‐日鉄‐富士鉄‐新日鉄と経営が変わる。
田中時代に横山久太郎が48回失敗してやっと成功。49回目の残滓が展示。
館長は東京オリンピックのときに中学3年だったが、そのころ釜石は落ち目で、みんな名古屋の東海製鉄に仕事を求めて行ったので、どんどんクラスメートが減った。自分の父はレッドパージに会い、会社から外され、石灰の会社に写った。鈴木東民は社会党で、民主党になってから組合も弱くなった。
釜石の49000人のうち、1000人が犠牲になり、今は人口45000人。
幸楼という料亭が残っている。昔は遊郭もあった。明治29年の津波では釜石で5000人なくなる。戦争中にも艦砲射撃で1000人くらい死んだ。
釜石ラーメンは細いちぢれ麺。
橋上市場をフィレンツェで見てきた鈴木東民が許したが、改修に当たり、既存不適格で5年前取り壊し。
あそこにいくと黒山の人だかりで、親とはぐれるので怖かった。
釜石は工員などが多く、人口密度が高い。短期滞在者のためのパンションもある。夜は呑兵衛横町をはしご。
1月18日
2014年4月10日 木曜日横浜の朝日カルチャーセンターで『道草』について小森陽一さんとトーク。
会うのは久しぶり、小森さんは憲法9条の会の事務局長として全国を飛び回っておられるが、ちゃんと東大駒場でも授業もしていてすごい。おたがい多忙中故、せっかく会えたのにお茶でもと思ったけど遠慮した。ひとりになっておなかがすき、駅前の崎陽軒のレストランに入ったが、ここはコスパがとってもいい。お一人さまプチコース2800円で満足。
1月17日
2014年4月10日 木曜日きのう、旧友にさそわれ、浅草の新春歌舞伎を芸者衆と総見、そのあと草津亭で宴会という華やかな席に。お芝居にでていた米吉くんは、以前、新橋の芸者衆の話を聞きにいったときの少年ではないか? 知人の息子である。すばらしい女形になりそう。のりえ姐さん、相変わらず豊麗、大好き。明治大学卒業、英語ぺらぺらの芸者さん。立派な紳士がたにファンが多い。岩波ブックレット企画が通り、もう一つの単行本は少し遅らせ4月頭に出せるよう、また忙しくなりそう。森桜さんは2月の勉強会の企画と出演交渉を始めた。『彰義隊遺聞』在庫切れとなる。夜は尊敬する大平正己さん新年会、ベルギー料理ジャン・ド・ソレイユにて。裏地中悔学会の人たちは本当に酒豪ぞろい。
1月16日
2014年4月10日 木曜日14日の会は目から鱗だったとのメールたくさんあり。週刊「金曜日」の原稿を「当会随一の若手で頭のシャープ」な森桜さんに、数字などチェックしてもらう。維持費、管理費、改修費、日時、ころころ変るので私の老化した頭ではチェックしがたし。一回り違うとこれだけ頭の回転が違うんだなあ。
宇都宮健児さんが国立競技場を現地視察したいと言われるので、当会は候補全員にアンケートを出しており、中立の立場なので選挙戦の宣伝にならない範囲でご案内することに。民主党の有田芳生議員からも現地視察と資料提供の依頼あり。有田さんはライター時代飲み仲間だったが、議員になられてからは忙しくてなかなか会えない。ヘイトスピーチに反対しがんばっている。