1月7日 石巻で聞いた話

仙台駅スタバでメール受信、お店の人親切、そこからバスで追波川まで。北上町の熊谷さんと会い、昼ご飯に担々麺を食べ、双子の湯による。

長面浦の牡蠣養殖・西村さんの話。
ここで生まれた、飯野川の支所に税金の申告をしに行って揺れた。
ほれ、申告は3月15日までだからさ。
絶対津波くるなと思ったから急いでくるまで取って返して、松原に娘が嫁いでいたので、見に行ったらいないから、もう避難したと思って、家まできたらおばあちゃんがいたんで逃げろ、あそこに上がれといって、自分は寺までそのまま車で逃げた。のせてる暇はなかった。ばあちゃんはあとで足が津波に洗われたと言っていた。
お寺に米はあったし、野菜ジュース運んでくる人もいて、みんなで体をくっつけあって寝た。1週間くらいいたっけな、それから飯野川の小学校に2ヶ月、300人くらいいた。尾の崎は1人しか犠牲者がいなかったが、長面や釜谷はたくさん死んだので、かわいそうで話もできなかった。流された人も見ているが、それもいえなかった。大海に出たら見つからないだろう。まだ何人も見つかっていない。家ごと流されながら2階にいて助かった人もいる。1人だけ犠牲になったおばあちゃんは、お寺の前まで車できていながら、車から出ようとしないでなくなった。寒中水泳やって窓のガラス割って引き出したけど、なくなってた。そのあとも遺体捜索もたくさんしたし、掘って埋めるのもやった。思い出したくないよ。お棺の上に名前が書いてあるから、あけなくても知った人なのさ、ほんとにつらかったなあ。
2ヶ月飯野川にいて、それからビッグバンにうつったらあそこは暖房も冷房もあるし設備がととのっているからずっと過ごしやすかった。仮設にきたのは秋で、そこから毎日ここに通って、その年から牡蠣を始めた。いま牡蠣をつくっているのは7人。ここに来ると落ち着くんだ。仮設は狭いし、となりの声も聞こえる。

秋丸を貸してくださっている立山さんの話
チリ津波で作ってそのあともかさ上げした堤防さえなければなあ。皆安心して逃げなかったから死んだんだ。
大川小学校だってあれは人災ダベ。
昔は39年、繊維関係の工場に勤めてた。ニットが多かったな。それからその会社が駄目になって仕方なく土建屋になってもう15年だ。土地はたくさん持っているんだけどな、木を切っていっぺん売ったけど二束三文さ。朝7時に秋丸いって、草を刈って、夕方仕事帰りに寄ってまた働く。秋丸をリアスの森に貸してずいぶん楽になった。とくに夏中馬を放してくれるのは草を刈る手間が稼げる。石見銀山の松場登美さんの講演会は秋丸でやったんだ。あの人はすごいな、たくさん服を持ってきて配ってみんな喜んだよ。地震のあとは20年ぶりに母ちゃんを抱いて寝たよ、寒かったもん。(いいねえ、こんな話)

米農家の大内さん
おばあさんだけ仮設住宅に1人でいる。子どもは3人で、長男はうちを手伝って市営住宅に住んでいる。次男は今年市役所に入った。娘は東京の大学。
仮設には今でも炊き出しや食料品がきている。家賃ただで住んで、働く気がますますなくなる。それが心配だ。
ボランティアにももうものを持ってくんな、というんだが。持ってきてという人もいるしね。うちは40町歩つくってる。外に行って昆布を売れば、行政の補助で旅費の25万までは出るからこんど沖縄に行きたいな。
うちはちゃんと計っているけど、普通、米も放射能の検査もしないで籾で農協の倉庫にある、つくって納めてから計るなんてのは逆だ。福島みたいに全袋検査した方がいい。農協には納めたくないんだが、これも復興事業との関係があるので、出さないわけにはいかない。
たまに特例事業みたいなのがあると、みんなでいって一反を何十人も手で草刈りすると1日1万くれる。のんびりやってほとんど休んでいる。それで1万もでるとまともな仕事をしたくなくなる。トラクターを持っていったら、それだとすぐすむから持ってくるなといわれた。おれは今年は古代米を作るっちゃ。

コンサルタントの鷹野さん
被災地にいるとなんだかんだ予算が出る。経産省のお金が600万ついたので、高知にみんなで4泊で視察にいった。あとは静岡と滋賀。現地の人が立ち上がるのにはこういうことも必要かもしれないが、補助金はいずれなくなるから、自主事業を組み立てなくてはいけない。
自治体の委託を受けるだけではいけない。外から来ているNPOでうまくいっているのはEラーニングといって塾に行く余裕がないの子どもに勉強の場所を提供している。

東京オリンピックについて東京で考えていると、「資材も人材も東京で使うのでなく、被災地の復興を第一に」とまともな人はみんな言う。しかし被災地に行くと防潮堤や道路だけはどんどん出来ているが、復興住宅などは権利関係もややこしいためほとんど着工が出来ていない。またノウハウのある人たちは上手に補助金をとっているが、本当に困っている声なき声の人々のところには手が届いていない。本来2年半のはずの仮設暮らしは数年、いや7、8年続くと見てよいだろう。

茅葺きの熊谷産業貞好会長の話。
うちは白石の片倉の配下で、この辺の海防に移住させられたものどもなんです。
いろんな文書があったが震災でみんな流れた。
いつのころから茅葺きをしたのか。もともと農家だったが、茅葺きに特化したのは自分の代から。
茅場は北上川だがこのところ堤防工事が忙しくてなかなか中に入れない。
毎年、火入れはしている。そうしないと変な外来植物がはびこって植生が変わる。

同行した東北工業大学の菊池先生
古川の寺の8男坊。曹洞宗の東北の寺で末寺が15寺ある。
何のためにいきているのかといつも父にとわれてきた。
西南戦争のとき、西郷隆盛の弟など囚人が連れてこられてスレートの採掘をさせられた。故秋岡芳夫の門下で、フィールドワークを得意とする。

東北工業大学大沼先生
おじいさんが宮城県知事をして3年目で一期めの在職中になくなった。
その時お父さんが18歳で、いま72で会社の経営者。
東北大の伊藤研究室を出て、現場監督をしたりしていまは研究者に。雄勝のスレート屋根の民家の悉皆調査もしておられる。本当にフットワークが軽い。

長栄館/阿部長栄さん
大正14年生まれ、大須は海辺に平地がなく、はじめから集落は高台にあり、浜で取った魚を背負子で背負って運んで大変だった。その分津波での被害は少ない。天明の飢饉のときは大変だったんだね。秋田から牛車で運んできてみんなに米喰わせた。阿部源左衛門というえらい人がいた。かしこくてオールラウンドプレイヤー。商社マンみたいな感じ。どうしてそのビジネス感覚を身につけたのか。そのころ最上衆が海産物を買い付けにきたんですね。陸路でしょうね。秋田くらいから北前船もきてたけどね。伊能忠敬が測量に来ていますよね。分浜の秋山さんのところに泊まっていますよね。
ここ出身の藤塚式部という人が塩竈神社の神官になって、その人は林子平が開國兵談を書くのための学費と印刷の費用を出した。それで塩竈まで高山彦九郎や蒲生君平が訪ねてくる。みんなつながっているんだね。
祖父は43歳で亡くなり、そのあときたよそ者と、祖母がなんというかいい仲になった。女が1人で生きて行くのは大変だからそういうこともあると思う。父は何でもやった人で商売がうまかった。昆布や干物を行商に鉄道で米沢までいって、そこの生糸商で近藤家というのと懇意になった。
私は大正14年に生まれ、昭和8年の津波を見ている。家がどんどんはがされていた。尋常高等小学校を出てから、その近藤の米沢の製糸工場に勤めた。オヤジがいけというので。そのうちから金を引き出して父は大謀網をやったりした。18歳のときに気仙沼から船をまわせといわれて、ウィンチが反対に巻いて左手をけがした。肩甲骨に3本ひびが入って、おかげで徴兵検査は乙種合格で遠くまで取られなかった。なにが運になるかわからない。
阿部長栄さんは90近いというのに、朝もすたすた坂をおりて港を案内してくれた。漁協の仕事も長くとても視野の広い方である。漁協の2階は体育館になっており、一時はママさんバレーがとっても強かったとか。海を見て「今の若いもんはこんなに海を荒らしてしまって」と慨嘆した。