『青鞜の冒険』が出たが、なんだかやり残したところがいっぱいあるような。まずは平塚らいてうの自伝を読み直すことにした。以下感想と間違いを指摘する。間違いは誰にでもあり、これはただ出来るだけ歴史の事実を明らかにしようと言うだけの事である。らいてうの言いたい放題な人物評も面白い。ある面で本質をついているとも思われるので引用した。
平塚らいてうの自伝は主に二つある。
『わたくしの歩いた道』1955年、以下『道』
『元始、女性は太陽であった』上・下・完 1973-、以下『元始』
このほか『続・元始女性は太陽であった』戦後をあつかったもの。
両方とも小林登美枝さんの協力によるもの。小林は元毎日新聞記者だが、晩年のらいてうの私設秘書であり、らいてうに関する著書も多いが礼賛が多い。
両方を読んだ限り、『道』の方が平明且つ率直であり、そこから戦後民主主義の立場からはまずいとおもわれるところをのぞいて、詳細な記述を増やしたのがらいてう没後に出た『元始』という印象を得た。
例えば『道』口絵のあとに『わが母平塚光沢――霊満姫之命のみ霊にささぐ」
と献辞がある。らいてうは母や姉の影響で大本教に近づいていた。これは『元始』ではカット。
なのでした、ようでした、なったのでした、という文末が多い。なんだか自伝なのに人ごとみたいな感を受ける。
『道』では新婦人協会から大東亜戦までの20年に「わたくし自身の思想的飛躍も大きかった」と言い、アナキズムに近づいたことを述べるが、自身が戦争中、天皇賛美、戦争協力したことは書かれていない。
『道』憲法発布の日の思い出から始まるが、日比谷原の花火の恐ろしさは別の日のこととしている。『元始』では憲法発布のお祝いの同じときの花火。
門地主義について
『道』には、家祖として祖先とされる三浦大介や関ヶ原で活躍した平塚為広の話。平塚為広のためにらいてうが父の意をくんで関ヶ原に碑を建てた話など、門地主義や先祖崇拝に疑問をもっていない様子である。「遥かな祖先からの血のつながり」に回帰している。戊辰戦争での紀州藩の中隊長祖父平塚勘兵衛の活躍などは『元始』ではカット。
『道』祖父平塚勘兵衛の冒険的な上京。祖父の従兄の津田出をたより、15歳の父、平塚定二郎はドイツ語を習い、ロエスエルの助手として憲法制定に携わる。「引退後、功労により錦鶏の間祗候を仰せ付けられ」「皇室を尊び、天皇陛下にひたすら帰一しまつる純忠の念の深さは」「父への限りない感謝と、思慕と同情をよせる」などを含む14行は『元始』ではカット。
『元始』にある母の実家、田安家御典医飯島芳庵の家は丸山町でなく丸山新町。
『元始』34p 「彰義隊の乱の恐ろしさ」、紀州藩は官軍側だからか、らいてうは彰義隊を『乱』と見ていた。
『元始』45p 上野音楽学校校長上原久四郎→東京音楽学校校長上原六四郎
戦争について
日清戦争『臥薪嘗胆』を誠之の先生に教えられたときの書き方も、『道』では「三国干渉――遼東還付――屈辱外交に対する当時の国民的な怒りはよほど大きかったのでしょう。このことは家庭でも、また他の人々の話の中でもききました」は『元始』ではカット。
『元始』65p 小石川の白山坂の中程にある白山神社→薬師坂。
69p いぶむら楼とかいう料亭→井生村楼、自由民権の政談演説会なども行われた有名な料亭。
女学校時代。お茶の水にはいった理由。『道』「万事官立好きの父が選んだのにただ従った」『元始』「親まかせ、というより、父の言いつけに従ったまで」……微妙に違う。
お茶の水高女時代
5年間の担任で矢作栄蔵夫人矢作哲評
『道』「学科の出来の悪い人にはずいぶん意地わるいことをしたり、とげのある言葉も多く、一度にらまれたら最後」
『元始』
「肌のきれいな京美人で声の美しい人でしたが、いつも端然として、うちとけない固い態度で生徒に接していました。いま考えても、この先生から受けた授業は、世にも味気ない、心と心のふれ合いのないものでした」
修身などいやな授業はだまって教室の外に出て行ったという。
『元始』見出し、『成績はいつも抜群』自伝につける見出しかしら?
85p 『元始』男爵目賀田種次郎→種太郎
『元始』友人に対するらいてうの見解。
小林郁――「物質的に恵まれた家庭の娘でなく、身なりも十分でなかった。
市原次恵――横浜市長の娘「子供に恵まれずさびしい家庭」「この結婚は退屈で空虚なものだったようです」やや偏った見方か。
90pユンゲル→ユンケル
『道』反抗心の芽生え。倭冦へのあこがれ、刺殺された星亨にお墓参り、熱心な富士山の帰依者(『元始』では熱中)、などのことがストレートに語られる。富士登山を使用としたら父に「馬鹿な、そんなところは女や子供の行くところじゃない」(『元始』ないよ、とやわらげられている)としかられる。
明治30年代の父は反動的で「女はやはり在来の日本の女が結局いい」「学問は女を不幸にする」と信ずるようになっていた。明治女学校へいっていたら違う道が開けたかも。
姉の婚約と初恋に破れた姉の気持ちは「当時のわたくしにはなんの関心もないことでした」
106p、定二郎の妹同のルビが「ちか」となっていたり「あい」となっていたり
111pお茶の水の同級生・井上ふじは井上毅の「妾腹と聞いていました」
公人でない友人のプライバシーの開示をしていいものだろうか、疑問。
女子大時代
入学者について。『道』「悪くいえば粗野、よくいえば質実」「言葉遣いも乱暴」
『元始』「地方から来た人が多かったせいか、髪の結い方、着物の着付けなど野暮ったく、言葉遣いも乱暴で、さまざまの御国なまりが入りまじるというぐあいです」それぞれの郷土文化へのリスペクトの無さ、中央集権主義。
成瀬仁蔵への崇拝。『道』「生きた人格から離れたこれらの文字は、矛盾だらけで死物に等しい」「先生の言葉をすぐそのまま断片的に振り回す九官鳥のような連中」「成瀬教の信者から異端者扱い」など言いたい放題の印象。
『元始』実名を挙げての同級生批判
出野柳「狭量で排他的な指導ぶり」「まじめに考えてもいないし、勉強もしていない」
井上秀子「どこから見てもやり手」
料理の時間はさぼる、体操は「そのダラダラした感じがいや」
後援者について「大隈泊はいかにも傲慢な感じの爺さん」
女傑広岡浅子「自分の手腕に自信満々という態度で、押しつけがましく」
結局成瀬のプラグマティズムを離れて観念的哲学へ。神を求めて。
本郷教会へいく。『元始』158p 内ヶ崎作太郎→作三郎
テニス友達、長沼智恵子「何を云っているのかわからないような」「内気な人」
167p 日露戦争時、大塚楠緒子『お百度詣り』→『お百度詣で』
禅への関心、友人木村政子に導かれ両忘庵へ。「後藤宗碩という田舎臭い感じの大学生」について修行。
明治39年女子大卒業 津田塾に入り英語を学ぶ。津田梅子評「日本の生きた社会のことはあまりご存じなく、どちらかといえば世間知らずの人」「へんな切り口上で、どうも純粋な日本語がしゃべれない」
見性し、自由になって東京中を歩き回る。自称「遊び歩き」(道)
成美女子英語学校
同6月 閨秀文学会での与謝野晶子評「普段着らしく着くたびれた、しわだらけの着物といい、髷をゆわえた黒い打紐がのぞいて垂れ下がっているような不器用な髪の結い方といい」「笑うと独特な深刻なしわのよる大きな顔や、首の短い、肩幅の広い姿形」
青山(山川)菊栄評「青黄色く沈んだいかにも不健康な寒ざむとした顔色、島めもわからないほど地味なもめんの着物」「娘らしさというものがみじんも感じられず」「見栄えのしない人」
海禅寺の中原秀岳和尚との自分からの接吻、それに対する結婚申し込み、「こちらは只々あきれてしまいました」「誘惑したと言われてもそんなつもりは微塵もなく」はずいぶん無責任ではないか。しかし「ずいぶん不細工で、庶民的でもあるその顔だち」を好きになって処女を捨てる。
森田草平との出会い「陰性のはにかみやで、お話も上手とは言えずそのうえ気分的な、空想的な、ひとり合点のところが多い」(道)、「大きな頭、大きなからだで動作が鈍く、隙だらけの感じですが、それがかえって愛嬌」(元始)
生田長江「いかにも人なれて、万事に鋭く、そつのない感じ」(元始)
「木村さんを相棒に遊び歩くのとはまた別の興味とスリルがあった」(道)
このへん、たしかに元祖ヒッピーというかんじ。
塩原心中未遂・小説「死の勝利』の擬態
「あなたを殺そうと思う」「やるという気なら行き着くところまで行ってみるばかり」『道』の方が動機も単純でわかりやすい。
「蔵前の鉄砲屋へはいり、ピストルを注文」(道)
「蔵前まで来たとき、そこの銃砲店に(草平が)ひとりで入りました」「わたくしは、店の前に立って待っていました」(元始)
自分はピストルを買う事に関わっていないという弁明か。
父のピストルを持ち出す約束をしたが、母の秘蔵の懐剣を持ち出す。
「私は、あなたを殺せない」と草平は懐剣を谷底に投げる。
「そうだ、私は山を登るのだ、早く雪の山頂をきわめよう、と思って、すぐ一人で登りはじめました」先生も後から追ってくる。「気の毒でもあり、おかしくもあるくらい」「ダイヤを、真珠を、オパアルを無数に蒔き散らしたような近くの氷雪のやまやま。水晶の大宮殿のまっただ中にすわった私は、何ともいいようのない有頂天な幸福感にひたっていました」(道)ここ元始は平板。
らいてうは草平を「おかしくなる」と笑っている。余裕。
先生はわたくしの手紙をもってこなかった。
事件後、生田と母が迎えにきた。
森田は夏目邸に謹慎、漱石謝罪と結婚申し込みとを斡旋、小説を書かせる。
母校の女子大からの除名(桜風会の意思)
松本で静養
小林郁を頼って信州松本浅間温泉で静養――繭問屋の中島家に滞在――「地方によくある野心家で、権力に憧れているというような人」
会計検査官平塚閣下のお嬢さんとわかって待遇がかわったので養鯉所に移る。ポオの翻訳。西宮での臘八接心、長刀の稽古。小説『煤煙』。
「ほんとうに愛されたとも理解されたとも思っていないわたくし」『官僚臭が地肌にふかくしみついたような父の顔」
このころのらいてうは好奇心のかたまり、ちゃめっけ、からかい気分。
文芸講話 大貫かの子評「どこか野暮ったい感じの女学生」「かったるい感じで聞いていた」「しつこく絡んで、ひとりでしゃべり続けるのでした」
生田長江のところであった佐藤春夫「見るからにわがままな坊ちゃん」ずっとあとの再会「反っ歯で、しゃべる口もとに締まりのないところは、やはり昔のまま」
『小説千恵子伝』→『智恵子伝』(以上、元始)