震災日録 11月20日 いわきで聞いた話

5月のいわきモスクに行った時のことを『世界』の連載に書いている。そのときの映像は「天心六角堂消滅」以外まだアップできていない。もう一度、撮って来た映像を見てあらためていわきのおかれた過酷さを知った。そして私たちが防災を考える上で教訓とすべきことのみ、『世界』に紙幅のつごうで書けなかった分をここにしるしておく。これは5月に現場で聞いた話をまとめたもので、今の状況とは違うかもしれないし、別の見方もあるかもしれない。

いわき市は34万人の大都市で、広域合併により各支所が行政単位。
3・11では山側は余り被害を受けず、海側は相当津波でやられ500人がなくなった。
そのあと、福島原発の雲行きがあやしく、水素爆発が報じられ、住民はとにかくいったんは東京などに家族を逃がした。議員、裁判官、医者なども早めに避難した。
原発立地のあたりの車がいわきナンバーなので、風評被害が起きて、いわきナンバーの車を入れない、などの差別があった。
いわき市への物流のトラックなども入りたがらず、ものが不足した。
緊急災害マニュアルのようなものも作ってあったが、ほとんど機能しなかった。
支所が平の市役所にお伺いを立てても電話が通じず、返事もなかった。
支援物資を受け取る財務関係の部署と、配る福祉関係部署が縦割で、配布が遅れ、物資は平競輪場にたくさんおかれていたが、現場にはなかなか届かなかった。
支所のトップが責任を引き受け、名前だけ書いて持って行っていいということにしたところは必要なものが配られた。出先の公務員が責任をとる覚悟が必要である。
学校の体育館が避難所になっても、基本的には学校では誰かが責任をとらないかぎり、火は使えない。
体育館にはコンセントが二つしかなく、ポットでお湯を沸かしてもカップラーメンを作るのにすら間に合わなかった。高校の合宿所などを使えたところはよかった。
公民館などは畳の部屋がいくつかあり、近所ごとに部屋を使えた。テレビ、公衆電話もありインターネットも使えた。
避難所のいわき市職員は1日交代、福島県職員は2泊3日、長崎県と市の職員は2週間来ていて遠いところの人の方が何にでも通じていた。
はじめ冷たい唐揚げ弁当が毎日、そのあとは菓子パンと缶詰、みんな人の手のかかった温かいご飯が食べたいと思った。被害の少ない地域の婦人会やいわきモスク、ボランティアなどの炊き出しは喜ばれた。
避難せず残った人々(壮年期の男性)は自分の生活のための仕事、市街地の水道、電気その他の復旧に追われ、海側を観に行く余裕もなく、支援する余裕もなかった。
しかもやっとライフラインが復旧した4月11、12日にも大きな余震が起こり、また復旧のやり直し。
立地町村が避難し、常磐線が断絶したため、北は南相馬、南はいわきが原発への最前線になった。いわきの賃貸住宅は原発関連企業がおさえてしまい、家をなくした被災者はなかなか入れなかった。また、いわき湯本温泉は前線基地として原発作業員で満員。しかし大マスコミは一時、いわきから社員を避難させ、対策本部も県庁のある福島市におかれた。福島市からは原発までもいわきまでも2時間かかる。こんなにいわきを最前線にしておきながら、東電はプルサーマルをやるときもいわき市に相談も調整もない。
いわき市には国や県に追随するのでなく住民を守る独自の行政をしてほしかった。
風評被害をおそれて放射線値の計測器を学校へ配ったのもおそい。モニタリングポストを増やしてほしいといっても「それは県の所管だ」というのみ。給食には県内産品を使って農村部を応援しよう、といった「がんばっぺ、いわき」キャンペーンが行われている。子どもを内部被曝から守ろうという気がない。
いわきの人たちは今度の震災の経験を生かし、東京で大震災がおこったら支援してくれるだろう。だからいまのうちから姉妹都市とか交流をしたほうがいい。
……これ全部、東京都にも文京区でも起こりそうな気配です。