震災日録  9月14日 神宮寺の高橋和尚

書き残したこと。松本神宮寺の高橋卓史和尚が「記憶の蔵」へ遊びに来た。
「チェルノブイリ救援で40回近くいった。飯館村は215万ベクレルでチェルノブイリの避難区域の4倍でていた。福島は子どもの集団避難をさせたほうがいいと思う。
3月14日に南相馬に入って鎌田医師とともに病院を開いた。伝手がないとか何とか言っていないで、どんどん入っていって伝手は作るものだ。
坊さんが傾聴ボランティアとか言っているが、坊さんほど人の話を聞かないのはいないからな。
3月下旬に檀家や知り合いの協力で石巻の入釜谷に2メーター4メーターの大きな風呂を作った。そこに小さな診療所も作って時々行っている。
僕らは『気分はどうですか、大丈夫ですか』と聞くけど、元長崎大学の山下氏たちの調査は『そのときどこにいましたか、何歳ですか、爆発の時はどんなところにいましたか』といった疫学調査だ。つまり患者のためでなく研究者の業績のため被検者にしているということではないかな。南相馬も疫学調査の草狩り場になっている。(山下氏は福島医大副学長の就任挨拶でこれからは福島医大が被曝研究の先端になると言ったとか)」

*黒沢明「生き物の記録」1955
同じ日、夜、蔵で黒澤明「生き物の記録」を見る。品川辺りの鋳物工場、中島喜一(35歳の三船敏郎が腰の曲がった70歳を怪演)という社長はビキニ水爆実験に恐怖を抱き、一家を上げてブラジルに移住すると宣言する。「死ぬのは構わんが殺されるのはいやだ」
妾とその子を含めて14人もいる家族は反対、「工場の中で生まれてこれでじゅうぶん幸せなんです」、喜一を禁治産者にする申し立てを家裁に行う。調停員の歯科医原田(志村喬かっこいい。30年ころの歯医者の治療室も懐かしい)は自分の出した調停に疑問を持つが、中島工場は焼け、火をつけたと言う喜一は精神病院に送られる。
原田が見舞いにいくと、他の宇宙に脱出したと思っている喜一は太陽を見て「地球が燃えている」と叫ぶ。
公開時、全く不入りだったと言うが、いま切実な環境で見るとすごい!!!
「死ぬのは構わんが殺されるのはいやだ」そう叫びたい。「余裕があるからブラジルへ行けるんでしょう、ここでじゅうぶん幸せなんです、私ら工員の生活はどうなるのか」
みんなどこかで聞いたようなセリフ。なんという先見性。
ほかに中村伸郎、千秋実、左ト全、東野英次郎等オールスターキャスト。

*亀井文夫「世界は恐怖する––死の灰の正体」1957
「上海」「流血の記録砂川」「戦ふ兵隊」「小林一茶」の監督亀井文夫がビキニ水爆実験後の世界は原子力でどう変わるのか、ネズミへの実験、遺伝子への影響、死の灰がふってどんな計測値が出たか、さまざまな研究者と協力して作った映像。
原爆後に生まれた赤ん坊のホルマリン漬け、ネズミにストロンチウムを投与する映像のすぐあとに赤ん坊に授乳するシーンを繋ぐなど、衝撃的モンタージュ。ビキニ水爆時はまだゲンパツはなく、日本は被害国だった。いまは原発推進勢力も多くいる加害国であるとはいえ、このような映画を作る主体はどこにいるのか。タイトルロールにはこのときは東京大学教授の名が協力者に並んでいる。原子力ムラが形成される前。そしてビキニ水爆実験の時は、わが親たちだっていまよりもっと子どもへの放射能の影響に敏感だったと思う。