震災日録 9月8日 食べるものへの心配

一日家でしごと。9月になっても暑さ去らず、この夏は本当にクーラーなしで乗り切った。テレビも地デジ化せず見られない。人のうちに行くと見せてもらう、そのくらいでじゅうぶん。
こんなブログを何人の方が読んでくれているのかわからないが、このおそろしい時代を記録しておくことは意味があるとおもう。しかし自分でもハイになったり、冷静さを欠いたり、断定的になったりしている。正直に書いたことが人を傷つけることもある。丸森で買ってきた野菜をめぐる話は親子の葛藤、食物に関する世代の感じ方の差について書いたつもりだったが、友人からメールが来た。
自分の第二の故郷、人ごとではないと思っているのだが、地名を書くことで嫌な思いをさせることもある。書き方が不正確でした。娘は福島の子どもたちの被曝量を政府が上げたことについてずっと取材していて、わたしより内部被曝についてしっかりしたデータと考えを持っている。私が「一回だけだし」といったのを「毎日食べている」当地の子どもたちのことを心配しろといったのだ。トウモロコシもおいしい、あまいと食べていました。
9月4日の陸前高田の松の京都でのお焚きあげについても、もっと複雑な事情と意見があるようで、撤回。認識がすすめば前言を訂正することはあり得る。愚かで弱い人間の言としてお許しください。しかし訂正するときはちゃんと断ります。
東京にいるとどうしても消費者目線になりがちだ。ダイヤモンドの吊り革広告『汚れるコメ』を見て、いやな特集だなあ、と思ったのに。
きのう仕事できた人は「結婚したばかりでこれから子どももほしいし、外食は避けてます。水もペットボトル、食品は産地を見て買っています」といっていた。その気持ちもわかる。でもこんなことが続くと、生産者と消費者、親と子、情報を持つ人と持たない人、または気にする人としない人、いろんなところに分断が生まれていく。厳しい中で農業を続けている人があきらめてしまう。それがこわい。