2013年8月 のアーカイブ

7月16日

2013年8月20日 火曜日

「なんで夜行列車は消えたんでしょうねえ」といったら元鉄道少年の高山和尚に「1、分割民営化で地区をまたがって走りにくい。2。飛行機の切符が安い。3、夜行バスはもっと安い。4、新幹線の方が速い、5、列車が老朽化したが新車に替えるほど投資は出来ない。のだそうだ」確かに、最後に乗った『富士』『はやぶさ』『北陸』なども寝台車個室はやに臭く、古びていた。15、16と千葉の浪花に行った。今回、波乗り道路をおりたところのそばやがおいしかった。元湯の黒い湯につかり、丸十で刺身を4種類かって山の上へあがる。いつまでも海を見ながら息子とお酒を飲む。翌日、勝浦、養老温泉を回って帰る。

7月15日 らいてうの自伝を読む(つづき)

2013年8月20日 火曜日

明治44年9月、青鞜の発刊vol1

『道』80p 高田ゆうあん、『元始』はこうあん。どっちが正しいのか?

保持研と一緒に寝起き、自己の探求、自己の完成が一番大事。

平塚家はなぜ、肺結核の友人と娘の同居を許したのか?

父と森鴎外の官僚臭は似ていると思ったらしい。

伊東忠太の奥さんの話、結婚はすすめない、といわれ援軍を感じた。

生田長江の雑誌発刊のすすめがあった。創刊同人へのらいてうの評。

中野初「娘というより、すでに分別のある中年の奥さんという感じ」のち水原秋桜子門下の俳人となる。

木内錠「見るからに病身らしく、さびしい影のつきまとった人」(以上、二人は露伴門下)フランス語を学んだが30そこそこで亡くなる

物集芳 「外交官夫人として海外へ旅立たれ」(海外勤務の証拠なし)「家庭的な不幸な生活があった」

物集和 芳のかわりに「色白で涼しげな面差しの美人、江戸っ子らしい勝ち気の一面もある」をさそう。慶応での医師、藤波剛一と結婚。物集姉妹は漱石門下

保持研とらいてう、五人の発起人そろう。

賛助員を依頼、10人快諾。『元始』310p 小金井君子、313pきみ子→喜美子

与謝野晶子「そのころはやりの大前髪を崩れるままにまかせたようなお姿は、むしろ個性的で異様にさえ見えました」「山の動く日来る」を寄せる。

印刷は『白樺』とおなじ三秀舎に、事務所は物集邸におく。

保持はそろばんをはじいたり、紙片に数字を書く(道)

見積もり 定価25銭売り上げ17銭という事は7がけでおろしていたのか?

売り上げ154円とは900売れた勘定。つまり100部は寄贈とか宣伝用なのか。それで25円くらい儲かるはず。青鞜社日誌

7月あたりまでには3号分の内容がほぼ決定(道)

社員は18名、野上弥生子(『元始』、好意はもっていたものの、最初から入社したことはないとのこと)、田村俊子と尾島菊子、人力車で駆けつける。

田村「人の思惑など気にせず、何でもずけずけ言う人」「濃化粧した細面の顔は、固い技巧的なもの」

尾島「ちょっと気になる言葉のなまりがあり」

表紙は長沼智恵子、クリーム色の地二象徴的な女の全身像がチョコレート色で出ていました。(道)「そのしゃなり、しゃなりと歩く異様なあで姿が、なんとなく不自然に人目を引いた」

「神田の三秀舎の二階で、活字の大きさや校正の仕方を教えてもらって、汗をふきふきやった校正も全部終わって」(道)92p

中野は仕事が多忙、木内は間に合わず、保持は事務にかかり切り、創刊の辞をらいてうが書く。「家事一切の煩瑣を嫌う」という度肝を抜く宣言。しかしどっちみち、自分では家事はしていなかったのにわざわざこんなことを書く必要はあったのか。しかし男にも家事をせよと迫るならともかく、女中の労働にまかせるとはどういうことか。女中も『家事の煩瑣を嫌う」権利を考えに入れていたのか?

広告は朝日、読売、国民の三紙にだす。(朝日にしか確認できずと堀場清子氏)

「私は、女でありながら、女が嫌いでした。自分が女の仲間にいるということに我慢のできないときがよくありました」「女というものの中に非常に立派な神秘的なものが潜んでいるのに、隠されていて誰も気がつかない」(道)

「女の仲間にいるということがどうにも嬉しくない」(元始)

「自分のしなければならない本島の仕事は、何かまだわからないが、他にある」(道)

信州で思った雷鳥の孤高のすがたから、らいてうとペンネームをつける。(これも他の人はみな女名前なのに一人だけ号というのが突飛であり、カリスマ化の要因)

母が経済的助力、婚資を出版費用にくれる。

青鞜バッシング大正元年=明治45年vol2

時代は日露戦争、日韓併合後の旭日沖天の時代。(道。元始ではカット)

科学的な実証主義、ニイチェ流の自我哲学、オイケンの理想主義、イプセン、自然主義文学、新劇運動、などさまざまな新しい運動、その中で保守的だった教育界と婦人界。

44・9『人形の家』上演。ノラに対して「みんな若くて同情心がなかったせいか、相当辛らつな言葉」家出するノラでなく古い女ノラ

ズウデルマン『マグダ』の上演禁止

明治45年正月、大森海岸藤川(元始、富士川)で新年会 荒木郁が世話

読者からの情熱あふれる手紙はどこに行ったのか?

返品や在庫はどこに行ったのか?

人形の家などの図版は石版か?

なぜ写真の前に薄紙を挟んだのか?

二年目の8月号の変な表紙はどうして?

宮城房の「新しい村」その後をどう評価すべきか?

石崎春五というひとはなに?

「和製ノラの製造所青鞜社」放蕩無頼。

らいてうの社員評。創刊同人以外。

荒木郁、神田三崎町の玉名館女主人。南洋でゴム園をしている人がパトロン、早稲田での文学青年が好きな人、早大生、増田篤夫に夢中、宮崎民蔵が定宿、「感覚的情緒的に素早くものをとらえて行動する人」「大胆で自由な生き方」(元始)のち小野賢一郎とも。この人の「手紙」で『青鞜』は初の発禁。

岩野清、治安維持法5条改正に尽力、岩野泡鳴夫人。4月頃、上京、田畑の筑波園で歓迎「大きな丸髷をつけた、小作りな、痩せた、どちらかと言えば派手ごのみらしい厚化粧の奥様」(元始)グリーンのマントを着ていた。妙に潔癖で足を拭かせる。

上野葉子、「輪郭のはっきりした美しい顔だちの、颯爽たるひと」(元始)佐世保より上京。教師、早死に。

榊桜(神近市子)「社員だというので学校を追われる(道)」東日の記者となる。

「固く引き締まった男性的な感じ」(元始)

瀬沼夏葉、伊香保の会合にくる「珍しい洋装、白い服にボンネット」「中年の小柄で上品な、優しい感じの婦人」(元始)6人の子の母。7人目のお産で亡くなる。

長宗我部菊子(生田花世)「人一倍小柄な体を、地味な着物に包んで、目立たない束髪に結った」「夢中でひざを乗り出し、こちらへにじり寄ってくる」

尾竹紅吉(富本一枝)「ほとんど独り合点でわからない」「珍しい無軌道ぶり」「生まれながらの解放された感覚の持ち主」「大きな声で歌ったり、笑ったり」(道)「大きな丸みのある身体とふくよかな丸顔をもつ可愛らしい少年」(元始)

「編集の手伝いや表紙絵やカットのしごとなど、何でも手伝ってくれた」(元始)「人にもてる事の大好きな紅吉は、幸福のやり場のないような嬉しそうな顔をして、得意然とあちこちに出没していました」(元始)『陶器』で巽画会の三等賞。

紅吉の才能はその後花開いたか? 尾竹家の美術界での位置、福美は安宅安五郎と結婚、その娘が鴎外の息子類と結婚。富本憲吉との夫婦関係はどうだったか。

葦原登楼について。お茶の水を出た花魁なんていたのか? 栄山

林千歳 女優『マグダ』のマリア。「小柄ながら美しい人」「一応ものはかける人」

伊藤野枝 「十六ばかりのかわいい少女」「新鮮な感情の波が絶えず動いている抜け目のない目」「赤いメリンスの半幅帯をきりっと閉めて、ニコニコしている小柄な田舎娘」「育てたい、育てねばならない、大切な人」(道)毎月10円くらいの手当を渡していた。

小林歌(哥)津子 「どこかさびしい影をもちながらよくしゃべり、下町育ちの人なつこさがある人」(道)小林清親の娘。「細面の中高な浅黒い顔」(元始)

小笠原貞子、

安田皐月(原田)

高田真琴(坂本)ミッションスクールでの英文タイピスト。

岡本かの子「世にもまれな純情で、多感で、お人好しなこの世間知らずのかの子さん」(道)

三年を精神病院に送る。その原因はいわない。

三ヶ島葭子 「若さも血の気もなく寂しく痩せて、齢よりもずっと老けて見えた」(道)

原阿佐緒 「情熱と感傷の歌人」「一目にはさながらお人形」(道)

茅野雅子 茅野瀟々夫人「いつも美しく、淑やかに、物静かな方」(道)

原田琴子、岩渕百合子、

柴田かつ(よ)子 「岐阜の人で青鞜社の中で異彩」(道)

杉本正生「どこかサバサバした、うるおいを欠く筆」

「私のような陰気な人間のそばに、この紅吉がいてくれたおかげで、賑やかになってよかった」

『青鞜』バッシング

五色の酒 下からストロベリー・リキュール、ペパーミント、マラスキー酒、ヴァニラ、コニャックを注ぎあわせたもの 鎧橋際 「メゾン鴻の巣」

吉原登楼 大文字楼 栄山→紅吉が東京日日新聞社会部記者小野賢一郎にはなす。

らいてう、煙草を吸う、金歯を入れる(新聞記者の証言あり)、マントを着る、酒を飲む。

「私は新しい女ではない」と腰が引ける人々、この敗北主義と自信喪失がいけない。

責任を取って紅吉の退社。

物集和 藤岡一枝と変名で書く、事務所は万年山へ移転

脱退者を清算して、青鞜社はいっそう結束が固くなり、額に飛んできた泥土をぬぐい去る。大正元年の暮。「かろきねたみ」発刊。

保持研、尾竹紅吉、茅ヶ崎南湖院へ。7月明治天皇の死。

8月、奥村博 茅ヶ崎へ来る。「異様な、大きな赤ん坊のような、汚れのない青年」。しかし若い燕は去っていく。「見るからに純良そうな芸術家タイプの若々しい青年」

年下のものをかわいがりたい気持ち。「あのときの平塚さんは本当にひどかったわ。私本当に紅吉がかわいそうでたまらなかったわ」

9月、東雲堂に発行経営を一任、青鞜研究会を万年山で再開。印刷は文祥堂

10月17日 鴬谷伊香保で一周年記念会

西村陽吉 「大人で、笑顔に幼げな可愛らしい表情を見せますが、分別のある早熟な人でした」「たまに手をつなぐくらい」奥村の代わりに心に滑り込んできた人。東雲堂があったのは南伝馬町→檜物町

なぜ小林哥津が心を寄せているのにらいてうは手を出したのか? いつもの好奇心とスリル?

因習を排撃しながら前近代的な土俗的なものや土地の宗教には肯定的なのはなぜか?

大杉が「私は古い女です」を書いたのか?

瀬沼夏葉の訳は本人によるものか、夫によるものか? 野枝のは? 山田わかのは?

なぜ鐘紡の決算報告が乗っているのか? 二月号

新真婦人評価は正しいのか?

生田長江と袂を分かった理由とは?

らいてうの「おかしくてなりませんでした」「おかしくてふきだしそうでした」余裕派というか実生活で何が起ころうと現実味がなく、悩んだり気にしたりしない。

愚痴や泣き言は言わない。下働きをした事がない。

高飛車な、罵詈雑言の形容詞の羅列は野枝の特徴、山川菊栄の論文もタカビー、この時代の特徴か。肩肘張った物言い。

父への反発、富士山以来。モダンで物わかりよい父? 日本回帰、父の代表する日本近代への疑問。

母と祖母と乳母の非近代的文化、淘宮術、絵双紙や、三味線、寄席。文化の衝突。

大正2年。vol3

『中央公論』1月号に『新しい女」を書く。

平出修への面罵、死後に。平出もひどいことを書いているとはいえ。

根津西須賀町の生田長江邸で紅吉『枇杷の実』を書く。青鞜社講演会。

このころ、生田長江と決別、ハンセン氏病だったからか? 『反響』草平と長江

夏目漱石の煤煙事件事後処理への軽蔑。『三四郎』美穪子にみるらいてう

2月号、福田英子『婦人問題の解決』で発禁。父から「家を出て行ってやれ」と言われる。青鞜を応援してくれた人、杉浦楚人冠、谷本富

奥村博史との再会。原田潤と布良で共同生活。『ファウスト』観劇、バラの花束を贈る。ジイベルという学生の役。赤城行き、結ばれる。これが初めて?

新妻完みたいな変な男となんで奥村は仲良かったのか? 湯河原の奥村家の姑とらいてうの関係は?

奥村家は加賀の前田家家臣→北海道開拓使、余市で材木業→藤沢で引退、父、目をやむ。博の事を母に託される、と元始では説明あり。

この博の父母の死去、姉の事いっさい記載なし。

東京中を手をつないで楽しそうに歩き回る。

秀嶽和尚に博を紹介する。これもひどい話。秀嶽の悲惨な最後に言及なし。

10月、社則改正、賛助員をきる、青鞜補助団、野枝が編集、岩野清が事務のサブ

原町の下宿を博、追い出される、新しい女とつきあうのは娘の教育によくない。

昼間はアテネフランセと絵を書いて夕食どきに博がくると母の顔がさっと曇る。

いつまでも帰らないのんきな博、かえしたくないらいてう。父はずるくてらいてうに直接言わずに母にばかりあたる。

大正3年 vol4

事務所の再移転。1月、独立するについて両親に。巣鴨3−3植木屋の離れ。フランス製のオイルストーブで器用にご飯を作る博。きわめて簡易な生活

長沼智恵子、尾竹紅吉も結婚。

孤独を好む性質、疲れやすい体質が同棲に耐えられるかと心配?

奥村の頼りなさ、意欲のなさにらいてうはイライラしなかったのか?

結婚式なし、籍入れず。

エレン・ケイと優生思想の関係?種族の保存と、種族の質を向上?492pより、よい子供を産み育てる?どういう意味。生殖の神聖視と母性の尊重。

5月号 「響きと影」マッコイ、辻潤訳。辻家の生活を助けるため?「なんであんな場違いなものが乗ったのでしょう」。原稿料は出たのか?

野枝、すぐおこる、私書いてやるわ。野性的な生一本の情熱。人の迷惑に対しては驚くほど鈍感。目のくりっとした、可愛い赤ん坊、辻まこと。

紅吉 行動とは反対の古くさいものをもっていた?因習そのものの結婚

哥津 一番大人っぽく、常識で冷静。

生活のためにはたらこうとしない男ばかり。奥村、辻、原田、

4月ごろ岩波が発行を引き受ける話。うまくいかず。5、6、7、8とらいてう一人の肩にかかる。

保持研のうまくいかない恋愛と実務上のノイローゼ、帰国して静養を勧める。

5月頃、びわのみの熟するころ、二人で土肥温泉に一週間でかける。

千原代志を同居させ同じ蚊帳に寝る、これも変な話。

6月、野枝が代わりに炊事をすると言い出す。らいてう、博、妙義神社前に越す。

博は菜食主義者、汚い雑な炊事に嫌気がさし、駒込橋のたもとの河内屋で食事。

岩野泡鳴夫妻も宮仲へ。泡鳴、気力のない辻潤を叱りつける。岩野夫妻の不仲。

野上弥生子「どうして平塚さんの周りには人が寄り付かないのかしら」

秋、妙義神社の祭りに野上、辻、上野葉子夫妻、小倉正三郎など遊ぶ

生田花世あらわる。生田春月あわぬ花世に結婚申し込み

安田皐月、大原で妻に死なれた原田潤と会い、結婚。白山に果物店を開く

9・23−奥村博個展 相馬黒光との出会い。

らいてうの憂鬱、自然への思い。10・12御宿へ。上野屋に滞在。のち漁師の離れに。勝浦、おせんころがし、小湊、波太(太海のまちがい?)

11月号は野枝が代理で編集。

全部自分がやるなら引き受けてもいい。

らいてう、野枝に『青鞜』を譲る。

大正4年 vol5

野枝の家小石川竹早町82、無方針無思想で行く。場を提供するだけ。いままで没になったものをのせる。指ヶ谷町92に移転。らいてう、帰って西原町に住む。『峠』執筆、中断。原田皐月の堕胎についての寄稿で出発禁止。

情操論争ー生田花世と安田皐月

らいてう十日会に参加ーー三井甲之の印象、武林無想庵、有島武郎のはげまし。右翼との交流?

四ツ谷区南伊賀町へ越す、山田夫妻の隣へ。

8月野枝の出産により休刊。なぜ元気な野枝がわざわざ九州へ帰り、4ヶ月もいて出産したのか?

12月、らいてう、曙生を出産。私生児。東片町篠田病院。博は南湖院で肺結核

産む前は里子に出そうかどうか迷っている。産まれたあとの手放しで可愛い。

江口章子「遊び好きの仕事嫌い」と生田花世は石女

岩野泡鳴と清子の離婚訴訟、蒲原房枝との三角関係。妻の坐への固執。

安藤故山とはどんな人か。日月社とは、8月号は生田と安藤。

生田長江との決別。

大正5 vol6

辻潤の実践力のなさ、野枝の大杉への傾倒、社会主義への共感

辻潤と野枝の従姉との不倫、代千代としたのはらいてうのせい。

2月野枝、大杉に走り、青鞜、休刊

11月、大杉と野枝、らいてうに会いにくる。そのあとに日陰の茶や事件

なぜ小林登美枝さんは元始のあとがきで『わたくしの歩いた道』について触れなかったのか?なぜまずいところを削ってしまったのか?

大正6年夏、茅ヶ崎から女中を連れて上中里に引っ越す。

新婦人協会の解散を一方的に提起する。山内みな―らいてうのブルジョワ的雰囲気

また山に逃げ出す 信州松本、茅ヶ崎、戸田、御宿、茅ヶ崎、

大本教への帰依、東京は日の雨が降る。速い疎開、茨城への

速記者、タイピスト、茶店経営、養蜂、お遍路になりたい。

『生活と芸術』社会主義的歌の雑誌。土岐哀果、第一回晩餐会は荒木郁の「くみ羽」にて=善麿は浅草等高寺の住職真宗大谷派・日比谷高校、早稲田大学、読売新聞、朝日新聞、啄木の『悲しき玩具』を編集し、葬式をする。たくさんの校歌を作る・啄木生存中に「樹木と果実」を構想。

『反響』生田長江と森田草平、長江のらいてうの専横を怒る阿部次郎宛手紙

なぜ、漱石は妻子あり、東京に現地妻までいる草平とらいてうを結婚させようとしたのか?これから解くべき疑問。

7月14日

2013年8月20日 火曜日

以下は私の本「青鞜の冒険」を出してなお、やまない考えや疑問に関するメモである。興味のある方だけお読みください。

煤煙事件について、平塚らいてうを考える。山川菊栄いわく「よく人をびっくりさせる人で自分の事を予と書いた」には笑ってしまった。塩原事件のあとに見舞いにいったら、「世評はどこ吹く風とばかり、いつもの通りしとやかに、しかし勝ち誇り、自信に満ちた面持ちで禅を説いた」というからすごい。

らいてうの自伝から、二人は愛し合っていなかったと思う。らいてうが書いている言葉。「理解されたとも思っていない」「好奇心とスリル」から「行くとこまで行ってみよう」と思ったのではないか。いってみればこれも冒険であり、火遊びであったのだ。

お茶の水的教育の影響というのもあるだろう。「文学に触れ得ない」「読書をしない」ともいっている。「明治女学校へいっていたら」と悔しがってもいる。そのぶん「性におくて」だった。