9月21日

知里幸恵銀のしずく記念館による。横山さんの家の敷地内にたてられた簡素な白い建物である。しかし展示の内容は充実してすべて本物、レプリカはほとんどない。
改めて知里幸恵が小さいときからどんなに聡明で字もうまかったかがわかる。しかしそのぶん、同化政策の優等生として背伸びした部分もあったのではなかったか?
父高吉は幸恵が生まれたころは日露戦争に行って203高地の激戦を生き延びた。
アイヌの兵隊は特に前線にだされたというから、これも過酷な体験であったろう。しかし比べてみると高吉は登別温泉の開発者滝本金蔵夫妻にかわいがられて、そろばんを始めいろいろ習っているし、母ナミはその姉のマツとともに、バチラーがアイヌの優秀な子弟の教育のために始めた愛隣学校でキリスト教や英語を教わっている。アイヌ人の中では開明派といってよい。
子どもの知里幸恵が跳ね回ったであろう森や川は健在だった。小野アンナ、ブブノワについて書いたことがあるが、その身内である小野有五先生もきてくださった。
懇親会を終え、登別温泉でやっと一人。
知里幸恵銀のしずく記念館による。横山さんの家の敷地内にたてられた簡素な白い建物である。しかし展示の内容は充実してすべて本物、レプリカはほとんどない。
改めて知里幸恵が小さいときからどんなに聡明で字もうまかったかがわかる。しかしそのぶん、同化政策の優等生として背伸びした部分もあったのではなかったか?
父高吉は幸恵が生まれたころは日露戦争に行って203高地の激戦を生き延びた。
アイヌの兵隊は特に前線にだされたというから、これも過酷な体験であったろう。しかし比べてみると高吉は登別温泉の開発者滝本金蔵夫妻にかわいがられて、そろばんを始めいろいろ習っているし、母ナミはその姉のマツとともに、バチラーがアイヌの優秀な子弟の教育のために始めた愛隣学校でキリスト教や英語を教わっている。アイヌ人の中では開明派といってよい。
子どもの知里幸恵が跳ね回ったであろう森や川は健在だった。小野アンナ、ブブノワについて書いたことがあるが、その身内である小野有五先生もきてくださった。
懇親会を終え、登別温泉でやっと一人。