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戊辰戦争150年 崖っぷちで戦った男たち

今年2018年、政府は「明治維新150年」と銘打ったイベントをつぎつぎやっている。その数たるや、1日に全国で100ほど。冠をつけると補助金が出るのかもしれない。今年のNHKの大河ドラマは薩摩の「西郷どん」、2013年には「花燃ゆ」、長州の吉田松陰の妹が主人公だった。安倍晋三首相は鹿児島で「薩長の頑張りで今の日本がある」とスピーチ。
我が父は仙台藩、母は江戸の素町人、もらわれた家は庄内藩だから、こうした宣伝は癪に障る。それで、長らく絶版になっている「彰義隊遺聞」を、集英社から12月18日再文庫化してもらえることになった。


西郷さんの銅像の裏にひっそり佇む彰義隊の墓

子どもの頃、上野広小路を通る時、浅草育ちの母は、よく、「ここで彰義隊の上野戦争があったんだよ」と教えてくれた。そして1984年に地域雑誌谷根千を始めた時、明治生まれの土地の方から「彰義隊の時の椎の実玉をほじくって遊んだ」「上野から谷中を通る地下道があるらしい」「うちの爺さんは上野の火は青い、と言ってた。青銅の屋根が燃えるんだ」と聞いた。 やがて二度目の戊辰、1988年になり、谷根千は15号で「彰義隊・滅びの美学」を特集した。それから16年、地域での聞き取りも続け、2004年に「彰義隊遺聞」(新潮社)を刊行した。私の本のうちで一番よく調べ、時間のかかった本である。

概略をしるす。彰義隊は慶応4年正月の京都鳥羽伏見の戦いで、朝敵の汚名を着せられ、敗走して2月11日より上野寛永寺に謹慎した前将軍徳川慶喜の助命嘆願を趣旨とし、元一橋藩藩士を中心に結成された。最初「尊皇恭順同志会」としたところにその思想が見て取れる。主君慶喜に従い、尊皇をうたい、恭順を旗印とした。そこに幕臣、郷士、脱藩組などが加入集結し、「彰義隊」と名付け一大勢力をなしたので、これを有効活用しようと考えた勝海舟によって一時は市中取り締まりを命じられた。上野に屯集し他頃には徹底抗戦派も多くなり、これを危険に感じた慶喜は4月11日水戸に撤退する。その後、彰義隊は寛永寺住職輪王寺宮守護を旗印にその数おいおい増えたが、旧暦5月15日についに大村益次郎を指揮官とする新政府軍に攻撃され、半日で壊滅した。
しかし彰義隊は新撰組ほどの人気がない。

  1. 4月はうるう月もあったとはいえ、結成が慶応4年2月13日、5月15日の壊滅までたった4ヶ月ほどしかない。
  2. というわけで新撰組のように壬生の屯所での恋の出入りもなく、資料が少なく、特にキャラのたった隊士がいるわけではない。

今まで彰義隊を扱った小説や映画、漫画もないわけではないが少ない。
これからも下記のようなことは調べきれず謎として残るだろう。

  1. だいたい何人いたのか。1000人という説から、「勝海舟日記」では4000人といっている。
  2. もし、市中介護を申しつけた幕府の正規軍なら、勝海舟や山岡鉄舟が解散を命じたら解散するべきではなかったのか。そうした幕府の統率が効かない集団になっていた。一橋藩家臣から、郷士の天野八郎がなるなど、重心が変わっていった。
  3. 戦争当日一体何人いたのか。山へ戻れなかったもの、日にちを間違えたもの、逃げたもの、隠れたものがいた。「上野戦争記」を書いた阿部杖策は1000人程度、と言っている。しかし居たものも全員が城を枕に討ち死にといった悲壮な覚悟はなかったのかもしれない。
  4. 新政府軍は限定戦とするために根岸側の退路をわざと空けておいたのか。——新政府側もそれほど兵力がいたわけではなく、根岸方面は寛永寺領地で、彰義隊に加担する地元民が多く、取り囲めなかった?
  5. 彰義隊の編成、服装、武器、訓練などの実態もよくわからない。
  6. その他、輪王寺宮の周辺の僧侶、寺侍、煮炊きするもの、工兵(陣地を作るなどするもの)、トビや勇みのものもいたはず。
  7. 勝敗を決した要因は何か。アームストロング砲の威力とよく言われるが、砲弾は焼夷弾ではなく、寛永寺の伽藍が焼けたのは新政府軍の放火によるものだ。
  8. 死者の数も明らかではない。上野公園内にある彰義隊墓所を代々守ってきた小川家の名簿で208名、円通寺の和尚が回向したのが266名。他にも供養の墓がいくつかあり、また敗走中に殺されたものもある。

上野戦争はそれでも、首都江戸の人々の前で、徳川270年の歴史を半日で振り返り、歴史は巻き戻せず、時代が大きく変化したことを示した。


西郷さんの像はなぜ上野の山にあるのか

彼らを「烏合の衆」「農民上がりが隊長」「たった半日で壊滅」と軽んじる評価も見るがそうだろうか。
私が調べたところ、春日左衛門、菅沼三五郎、大久保紀伊守、織田主膳といった7000石ほどの高位の旗本も参加していた。鳥羽・伏見の戦いの敗将竹中丹後守も別名で参加した。 あまり活躍しなかったように見える頭取の池田大隅(8000石)や小田井蔵太(3000石)も当日上野にいて、北を指して落ち函館まで行った。彼らにとって上野で戦死することは目的ではなく、上野での第一ラウンドの後、再起を期して飯能戦争、東北列藩同盟、さらに函館まで転戦したのかもしれない。宮古湾海戦で新政府軍の艦隊を乗っ取ろうとして死んだ笹間金八郎、箱館戦争で死んだ春日左衛門、原田左之助などの隊士もいる。彰義隊の名にあるごとく、武士としての義を明らかにしたと思う。

12月1日、東大安田講堂で「彰義隊シンポジウム」が行われ、そこでもまた新たに隊士の子孫とお会いすることができた。それぞれの方が、自分が幕臣の末裔であること、先祖が彰義隊に参加し、あるいは戦死したことを誇りに思い、家の歴史として伝えていた。
この本がきっかけで知り合った、京都大学の中村達雄さんは「うちの先祖は青木孫太郎といい、麻布中の橋のあたりに屋敷があって5000石の旗本だった。前日吉原で遊んで、下駄を引っ掛けてそのまま上野に向かったとされています」とのことだった。
もし、何らの武力抵抗がなかったら、武士たちの鬱憤も晴らせず、町人たちの期待も肩透かし食ったのかもしれない。当日の会場、安田講堂に1968年に学生が立てこもり、機動隊に突入されて簡単に落城した時、うちの母は「なんだ、だらしがない」と悔しがったくらいである。彰義隊は上野の山で「一寸の虫にも五分の魂が宿る」ことを示した。
また彰義隊、新政府軍、どちらも前日におふれを出して、町人などの非戦闘員を殺傷せず、武士同士の意地をかけた戦いを繰り広げた。自ら上野に赴いた戦死者にとっては納得のいく生き方、死に方だったと思う。しかし鳥羽伏見の戦争で大阪城に我が将兵を置き去りにして江戸に逃げ帰り、また上野の山をでて水戸に退いた主君慶喜は名誉回復されて大正2年まで長生きした。私は崖っぷちで戦う男が好きだから、彰義隊への追慕は今も消えない。そして、恭順は出会っても彰義隊が守った谷中門の前大雄寺に墓を建てた高橋泥舟、敵味方両方を弔うための寺全生庵を建てた山岡鉄舟、当日、上野に入り損なって東照宮宮司となった本多晋、同士の墓を建て、墓守に一生を過ごした小川椙太などの生き方もまた、ゆかしく思われてならない。


「彰義隊遺聞」集英社から12月18日再文庫化

追記 本の中で彰義隊の幹部で戦死したのは伴門五郎ただ一人、と書いたが、最近になって、炎の中に消えた伴は実は大火傷を負って助け出され、実家のある蕨で、ひっそりと余生を送ったことが関係者によって明らかにされた。 このように、新しい発見もたまにはある。今回会場であった方の名刺を見て、ご先祖の彰義隊士はこのお名前なのですか、と聞くと、「いえ、明治の世を生き抜くために別の名字を名乗ったんです」という方もあった。このように世に隠れる生き方を余儀なくされたことも、彰義隊の調査を困難なものにしている。今回のシンポジウムで、寛永寺の浦井正明氏は、「西南戦争を起こした西郷隆盛も明治32年には名誉回復され、徳川慶喜も同じ頃に名誉回復されて公爵となり大正2年に死んだ時には勲一等を贈られた。それに比べ、彰義隊は逆賊の汚名を着たまま、一切名誉回復がなく、気の毒の一言に尽きます」と言われた。その通りだと思う。

2018年12月10日   谷根千工房(森まゆみ)

谷根千工房 http://www.yanesen.net   E-mail: info@yanesen.com
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