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手は語る−日暮里の町工場を歩く

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電球屋・小川愛明さん〈4〉電球屋になりたてのころ(下)
2005年5月1日(日)  阿部清司 あべ・きよし
 封止場(ふうじば)はね、なんか暗いんだけど、そこでやってるのはガラス細工でしょ。うまい人が居てねェ。ああ、天才じゃないかなァって感動したのを覚えてるよね。
 とにかく、仕事を早く覚えたかった。仕事を覚えたいってんで、無我夢中でやった。お金のことなんか、まったく考えなかったね。
 細渕さんに入って2年くらい経ってから、西村(崟春)さんが独立したんで、ついて行ったんだけど、細渕さんの方で、しばらくしてから小型電球のできる人(大塚さん)が独立しちゃって、やる人がいなくなっちゃったんですよ。それで西村さんと細渕さんの間でなんか話があったんだろうね。そのへんのところがよく判らないんだけど、私だけ細渕さんに戻ることになってね。23歳のころかなァ。
 そのころは、社員じゃないんだよね。「受取(うけとり)」っていって、一つやって、いくらっていう職人が会社の中にいたの(つまり、出来高制のこと。現在でも、建築現場の職人に多く、やった分だけお金がもらえるので判りやすい反面、速くて正確な仕事ができないと稼げない、というキビシサを伴う)。
 受取の職人が、私を入れて3人だったね。当時、単価は一つ封止して1円10銭くらいかなァ。うん、安いんだよ。気管支鏡用の小型電球(外径1・3ミリ)は、試作したときに「一つ90円でいいよ」って、千葉(要司/細渕電球の3代目の工場長)さんから言われたのは覚えてるね。そう、これは高かった。
 電球の職人ってのは、だいたい独立するもんなんだよね。ほらっ、治具はピンセットとヤスリだけでしょ。それで、小型バーナーとエアポンプがあって都市ガスを引けば、半畳のスペースで仕事がやれちゃうんだからね。
 細渕さんで最後の受取職人が、私なんだよね。で、ある時、千葉さんに「社員になってくれ」って言われてねェ。独立したい気持ちはあったんだけど、残ったんだよね。当時、受取で1カ月3万円くらいの稼ぎだったんで、社員になった時にそれがそのまま月給の額になったんだな。普通の月給取よりも、いくらか稼ぎがよかったと思うけどね。
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阿部清司 あべ・きよし 建具見習い、時々ルポライター
1974年生まれ。2000年9月に神奈川から谷中へ住まいを移す。いくつかの業界紙・誌の記者職として生計を立て、04年5月からフリーとなったが同年末にあえなく撃沈。05年1月、神奈川に帰り、家業の建具屋の職人に見習い小僧として弟子入り。「谷根千」67号74号78号に「日暮里駄菓子問屋街」の取材記事を寄稿。菓子業界はじめ、さまざまな工場に出かけて職人の話を聞く。
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