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手は語る−日暮里の町工場を歩く

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電球屋・小川愛明さん〈3〉電球屋になりたてのころ(上)
2005年4月24日(日)  阿部清司 あべ・きよし
 生まれは、現在の茨城県鹿島郡鉾田町ってところ。農家の9人兄弟の、八番目の四男です。ほったらかしにされてた? うん、まあ、そうだろうね。
 電球職人になったきっかけは、細渕の工場長だった西村崟春(にしむら・たかはる)さんの奥さん(静江さん)が親戚にあたるんですよ。西村さんは根津の生まれで、そのころは細渕さんの工場(こうば)が、まだ谷中3丁目にあった時代だね。
 本駒込の西村さんちに住込んで通ったんだけど、5000円のうち4000円を食事代として入れてたから、残るのは1000円だけ。
 内風呂がなかったんで、銭湯にはよく通ってて、その当時15円かなァ。
 西村さんちで、東京の人ってのは、こんなに食べないのかなァって思ったね。食事は朝、昼、晩の3回だけでしょ。ほらっ、茨城だと、農家だからたくさん食べるものがあったでしょ。だから、おなかが減ってねェ。近くのパン屋さんでコッペパンとか買って食べたり、あと、甘いもんが好きだったから、お菓子とか買って、だいたいなくなっちゃう。
 着るものがなくなると、実家にズボンを送ってくれっとかって、あァ、その当時まだ電話がないでしょ、はがき書いて出したりしたもんだね。  
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阿部清司 あべ・きよし 建具見習い、時々ルポライター
1974年生まれ。2000年9月に神奈川から谷中へ住まいを移す。いくつかの業界紙・誌の記者職として生計を立て、04年5月からフリーとなったが同年末にあえなく撃沈。05年1月、神奈川に帰り、家業の建具屋の職人に見習い小僧として弟子入り。「谷根千」67号74号78号に「日暮里駄菓子問屋街」の取材記事を寄稿。菓子業界はじめ、さまざまな工場に出かけて職人の話を聞く。
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