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手は語る−日暮里の町工場を歩く

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〈5〉親方のこと(下)
2005年2月21日(月)  阿部清司 あべ・きよし
〈5〉親方のこと(下)  親方(島田醇一さん)は商人に近いようだった。つくるだけじゃなく、店先で品物も売る。だから俺なんか、朝6時に起きて掃除して雑巾がけ。作業中にお客さんが来る。売り子もやった。たいてい親方は留守だけど、「主人は今、いません」なんて言ったりしてな。たまに居りゃ、お客さんの車磨いてこい、なんて言われるからね。まったく人間として扱かわれてなかったよ。
 しばらくは月1500円。安いよ、小遣いにもならない。親方の考えは、仕事を教えてやってんだから金もらいてぇぐれぇだ、てな風だからね。で、めしはロクでもないから、みんな辞めてっちゃう。続いたのは俺だけ。最後の弟子。
 何度、辞めようと思ったか。辞めたかったんだけど、おばさんに「私の顔をつぶさないでくれ」ってさ。今じゃ考えられないだろうけど、義理人情に縛られちゃったわけ。だから、15歳から31歳まで16年、青春の一番好い時期に、そこで働いた。
 最後の方は、親方のこさえた借金を、ただひたすら返すために働いてたようなもん。30歳時の月給が15万だよ。周りでみんな、30万くらいもらってんのに。亡くなる前には、体が動かなくなってさ。フロ(湯屋)にだって、一緒に連れて行って。それで、店をやるとか養子にするとか、親方が言うわけよ。でも、結局、一銭ももらえなかったな。
 まあ、親方も俺に何かしてやりたかったんだろうけど、その頃はもう何もできなかったから。親方だって、辛かったんじゃない。
 でもね、その親方がブラシで有名だったわけ。問屋とか卸に(若い頃の)親方の弟子が結構いたんだ。で、独立してから、商売するのに困らなかった。島田で勤めあげた若い衆なら、人間として間違いないって信用される。それだけは、ありがたかったなぁと思うね。
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阿部清司 あべ・きよし 建具見習い、時々ルポライター
1974年生まれ。2000年9月に神奈川から谷中へ住まいを移す。いくつかの業界紙・誌の記者職として生計を立て、04年5月からフリーとなったが同年末にあえなく撃沈。05年1月、神奈川に帰り、家業の建具屋の職人に見習い小僧として弟子入り。「谷根千」67号74号78号に「日暮里駄菓子問屋街」の取材記事を寄稿。菓子業界はじめ、さまざまな工場に出かけて職人の話を聞く。
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