タカノの右隣は現在、小さな公園になっている。
入口横の銅板には『荒川区立東日暮里二丁目児童遊園 昭和53年4月開設』と刻まれていた。
「30年ぐらい前に隣(ビニールの合羽屋)が火元で、うちも丸焼けになったことがあるんだよ。そん時、親父がちょうど還暦で、そこからうちは盛り返したんだけどさ。今、俺が61だけど、とても親父の真似はできねぇだろうな。やっぱり昔の人は、震災と戦災を乗り越えてきてるから、動じなかったんだよなぁ」
晴さんは、光三さんの跡を継いでみて、少しは父親を肯定できるようになった面もある、という。
「親父とはケンカばかりしてたよ。原因が何かってか。ああ、昔の職人だから、安くても高くても同じ仕事をしちゃうからだよ。たとえばさ、300円の品物も、3万円の品物も、同じように手間かけちゃうっていうかね。まあ、自分が納得したものを、つくりたかったんだろうけどねぇ・・・・・・」
「自分の息子が自分と同じ仕事をするってのは、嬉しいことだったんじゃねぇかな。何か気迫が違ってくるって言うかさ。周りで跡継ぎのいる所を見ると、だいたい親父さんが元気だしなぁ。俺は親父とケンカばかりしてたから、孝行息子じゃなかったけどよ・・・・・・まあ、(跡を継いだって意味では)少しはな」
タカノの職人、清ちゃんこと、軽部清男さんが、光三さんを語る。
「気持ちの好い人だった。おい、旅行に行くぞ、とか・・・・・・。月末になると、雀を喰いに連れて行ってくれたり・・・・・・」