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手は語る−日暮里の町工場を歩く

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万(よろず)木工・晴さんと二人の職人 〈9〉親方のこと - その5
2004年12月28日(火)  阿部清司 あべ・きよし
万(よろず)木工・晴さんと二人の職人 〈9〉親方のこと - その5  タカノの右隣は現在、小さな公園になっている。

 入口横の銅板には『荒川区立東日暮里二丁目児童遊園 昭和53年4月開設』と刻まれていた。

「30年ぐらい前に隣(ビニールの合羽屋)が火元で、うちも丸焼けになったことがあるんだよ。そん時、親父がちょうど還暦で、そこからうちは盛り返したんだけどさ。今、俺が61だけど、とても親父の真似はできねぇだろうな。やっぱり昔の人は、震災と戦災を乗り越えてきてるから、動じなかったんだよなぁ」

 晴さんは、光三さんの跡を継いでみて、少しは父親を肯定できるようになった面もある、という。

「親父とはケンカばかりしてたよ。原因が何かってか。ああ、昔の職人だから、安くても高くても同じ仕事をしちゃうからだよ。たとえばさ、300円の品物も、3万円の品物も、同じように手間かけちゃうっていうかね。まあ、自分が納得したものを、つくりたかったんだろうけどねぇ・・・・・・」

「自分の息子が自分と同じ仕事をするってのは、嬉しいことだったんじゃねぇかな。何か気迫が違ってくるって言うかさ。周りで跡継ぎのいる所を見ると、だいたい親父さんが元気だしなぁ。俺は親父とケンカばかりしてたから、孝行息子じゃなかったけどよ・・・・・・まあ、(跡を継いだって意味では)少しはな」

 タカノの職人、清ちゃんこと、軽部清男さんが、光三さんを語る。

「気持ちの好い人だった。おい、旅行に行くぞ、とか・・・・・・。月末になると、雀を喰いに連れて行ってくれたり・・・・・・」
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阿部清司 あべ・きよし 建具見習い、時々ルポライター
1974年生まれ。2000年9月に神奈川から谷中へ住まいを移す。いくつかの業界紙・誌の記者職として生計を立て、04年5月からフリーとなったが同年末にあえなく撃沈。05年1月、神奈川に帰り、家業の建具屋の職人に見習い小僧として弟子入り。「谷根千」67号74号78号に「日暮里駄菓子問屋街」の取材記事を寄稿。菓子業界はじめ、さまざまな工場に出かけて職人の話を聞く。
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