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手は語る−日暮里の町工場を歩く

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万(よろず)木工・晴さんと二人の職人 〈7〉親方のこと−その3
2004年12月20日(月)  阿部清司 あべ・きよし
万(よろず)木工・晴さんと二人の職人 〈7〉親方のこと−その3 (光三さんは)ある意味不思議になるくらい、家のことは何もしない人でした。

 私が静岡へ里帰りした時のことです。朝、オムツを干してから行ったのに、一週間経って戻ってみると、干したままのオムツが灰色になって、万国旗みたいにペラペラとたなびいていたんですよ。あれには、がっかりしちゃたなぁ。

 それから、私の実家から、たまには高野をよこせってことで、(光三さんは)気が進まなかったんでしょうけど、当時、年端もゆかない娘を連れて二人で静岡まで行ってもらったことがありました。一応は顔を出したみたいですけど、その日のうちに娘と一緒に温泉宿に泊っちゃったっていうんですからね。もちろん実家では、ご馳走を用意していたのに……。まだ電話を引いていない頃ですから、私はそんなことは知る由もありません。(光三さんは)宿で娘においしいものを食べさせながら、「かあちゃんには絶対に内緒だぞ」と言い聞かせて、念を押しながら帰ってきたんでしょうね。でも娘は幼い頃でしたから、その日のうちにみんなのいる前で、「とうちゃん、あすこの料理、おいしかったね」って、やっちゃった。あはは。「コラッ」って、すごい目つきして娘のことを睨んでいましたっけねぇ。

 とにかく長谷川(光三さんの主家)出の職人は、博打好きばかりで……。集まって話していることなんかは、帰りの電車賃だけは残しとかなきゃな、なんていった、くっだらないこと。学校に行かないからねぇ。手に職さえあれば、喰いっぱぐれはなかったですしね。

 おおむね昔の職人は、そんなもんだったんじゃないですか。
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阿部清司 あべ・きよし 建具見習い、時々ルポライター
1974年生まれ。2000年9月に神奈川から谷中へ住まいを移す。いくつかの業界紙・誌の記者職として生計を立て、04年5月からフリーとなったが同年末にあえなく撃沈。05年1月、神奈川に帰り、家業の建具屋の職人に見習い小僧として弟子入り。「谷根千」67号74号78号に「日暮里駄菓子問屋街」の取材記事を寄稿。菓子業界はじめ、さまざまな工場に出かけて職人の話を聞く。
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