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手は語る−日暮里の町工場を歩く

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万(よろず)木工・晴さんと二人の職人 〈6〉親方のこと - その2
2004年12月16日(木)  阿部清司 あべ・きよし
万(よろず)木工・晴さんと二人の職人 〈6〉親方のこと - その2  とき子さんの話は続く。

(光三さんは)お祭りが好きでね。神田だ、浅草だって、どこへでも顔を出していましたね。仲間が迎えに来るんですよ。仕事中でも私がちょっと目をはなしている隙に、草履を懐に入れて、裏からそっと出て行っちゃうでしょ。

 それから、とにかく博打が好きで、問屋さんから一日と十五日に集金すると、家に帰らずにその足で(打つためだけの)旅行に行っちゃうんですから。それで勝ってる間は、ずっと帰ってこないんですよ。家に帰ってくるのは、借金をこさえてきた時。もう、仏(光三さんのこと)さんだからしょうがないけど、非常に腹が立ちましたね。

 長谷川(光三さんの親方)の弟子で、小畑さんだけが打たなかったけど、あの人は飲むでしょ。

 親方の息子さんに金ちゃんとヤスさんの二人がいました。金ちゃんとは仲がよくて、「光(みつ)、いるかい」ってよく家に来てましたね。金ちゃんは大変な遊び人で、長谷川の長男だったのに、家を継がせてもらえなかったくらいでしたから。

 私は東京に出てはじめて『ずらかる』という言葉を知ったんですよ。お金を前借りして、仕事しないで逃げちゃう。長谷川金ちゃんが問屋さんから前借りして、大阪までずらかった事がありまして、たしか、何年間か東京には帰ってこなかったんじゃないかと思いますよ。昔は、ずらかる職人って結構いたんです。問屋の番頭さんたちが、前借りした職人に地方へ逃げられないように、いつも上野駅で目を光らせていたくらいですから……。
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阿部清司 あべ・きよし 建具見習い、時々ルポライター
1974年生まれ。2000年9月に神奈川から谷中へ住まいを移す。いくつかの業界紙・誌の記者職として生計を立て、04年5月からフリーとなったが同年末にあえなく撃沈。05年1月、神奈川に帰り、家業の建具屋の職人に見習い小僧として弟子入り。「谷根千」67号74号78号に「日暮里駄菓子問屋街」の取材記事を寄稿。菓子業界はじめ、さまざまな工場に出かけて職人の話を聞く。
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