!新谷根千ねっとはコチラ!

手は語る−日暮里の町工場を歩く

ゲスト連載の一覧へ   ↑手は語る−日暮里の町工場を歩くの目次へ   最初  <-前  次->  最新
万(よろず)木工・晴さんと二人の職人 〈5〉親方のことーその1
2004年12月12日(日)  阿部清司 あべ・きよし
万(よろず)木工・晴さんと二人の職人 〈5〉親方のことーその1  タカノの創業者で、晴さんの父親、高野光三(みつぞう)さんは、20年ほど前に70歳で亡くなった。光三さんと四十数年間つれ添った、とき子さん84歳が故人を語る。

 うちの人がどんな人だったかですって。もう、まるきり昔の職人かたぎ。自分だけ楽しんで、自分だけ遊んでた。

(光三さんは)日暮里の生まれです。震災(大正12年)前に両親が亡くなって、幼い頃から子守りだとか何かをやって働いていたらしいんですよ。だいぶ歳の離れた兄さんと姉さんがいたんですけど、仲がよくなかったみたいで、面倒みてはくれなかったそうです。兄さんは粂三(くめぞう)という名で、腕のいいブリキ屋。「銅粂」っていえば、神田では有名でした。

 幼いながら、子守りなんかやっていても仕方がないってことで、10歳の時に入谷の「長谷川」さんに弟子入りしたんです。ここが和家具の大きな店で、一人前の職人が常に二十数人もいるところでした。(光三さんは)大勢の中で揉まれて、19歳(昭和8、9年)で年季があけました。

 私たちが一緒になったのは、昭和15(1940)年です。私は静岡の生まれで、人からの紹介でした。一緒になった頃は、本所の方へ職人に出ていて、ラジオの外枠(木部)を手がけていました。その当時で月に100円の稼ぎがありまして、月給取り(サラリーマン)よりも稼ぎが良かったですね。昭和7(1932)年に静岡・大宮町の実家が焼けたんです。1200軒が焼ける大火でした。その時の大工さんの一日の稼ぎが、夜が空けてから日が沈むまで働いて、弁当持ちで1円だったと覚えています。
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
阿部清司 あべ・きよし 建具見習い、時々ルポライター
1974年生まれ。2000年9月に神奈川から谷中へ住まいを移す。いくつかの業界紙・誌の記者職として生計を立て、04年5月からフリーとなったが同年末にあえなく撃沈。05年1月、神奈川に帰り、家業の建具屋の職人に見習い小僧として弟子入り。「谷根千」67号74号78号に「日暮里駄菓子問屋街」の取材記事を寄稿。菓子業界はじめ、さまざまな工場に出かけて職人の話を聞く。
ゲスト連載の一覧へ   ↑手は語る−日暮里の町工場を歩くの目次へ   最初  <-前  次->  最新
ページトップへ