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手は語る−日暮里の町工場を歩く

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万(よろず)木工・晴さんと二人の職人 〈3〉土地っ子の晴さん(上)
2004年12月4日(土)  阿部清司 あべ・きよし
万(よろず)木工・晴さんと二人の職人 〈3〉土地っ子の晴さん(上) 「小さい頃は原っぱっていうか、焼け跡がいっぱいあったっていうかねぇ。うちも今の工場(こうば)の場所を畑にして、トマトなんかの野菜をつくっていたんだからねぇ」

 晴さんこと、高野晴夫さんは東日暮里2丁目で生まれた。ただし、61年前の地名は「三河島」であった。タカノの工場のある2丁目一帯「二の坪」は、昭和41(1966)年の区画変更で、約40年前から日暮里になった。この二の坪という、地名だけが昔から変わらない。工場からJR常磐線のガード方向に60歩ほど進めば「二の坪東」の交差点で、ガードと平行に走る幅の大きい道が「二の坪通り」である。

「昔の二の坪通りは賑やかだったって聞くねぇ。キャバレーがあって、寄席があって・・・・・・」

 一説によると、映画館もあった、という。今は、まるで面影なし。

「うちの斜め前の田中さん(駄菓子屋)の所が、馬小屋だった。小屋の前に馬方がいて、大八車が置いてあった。前の通りを馬が大八車に載せた材木を引いて、ぱかぱかと歩いていたんだから。信じられるかい」

「うちの左隣が鍛冶屋で、とんてんかん、とんてんかん。その角に襤褸(ぼろ)屋があったな。右隣がビニールの合羽屋で、その隣が家庭用の糊屋」
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阿部清司 あべ・きよし 建具見習い、時々ルポライター
1974年生まれ。2000年9月に神奈川から谷中へ住まいを移す。いくつかの業界紙・誌の記者職として生計を立て、04年5月からフリーとなったが同年末にあえなく撃沈。05年1月、神奈川に帰り、家業の建具屋の職人に見習い小僧として弟子入り。「谷根千」67号74号78号に「日暮里駄菓子問屋街」の取材記事を寄稿。菓子業界はじめ、さまざまな工場に出かけて職人の話を聞く。
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