「小さい頃は原っぱっていうか、焼け跡がいっぱいあったっていうかねぇ。うちも今の工場(こうば)の場所を畑にして、トマトなんかの野菜をつくっていたんだからねぇ」
晴さんこと、高野晴夫さんは東日暮里2丁目で生まれた。ただし、61年前の地名は「三河島」であった。タカノの工場のある2丁目一帯「二の坪」は、昭和41(1966)年の区画変更で、約40年前から日暮里になった。この二の坪という、地名だけが昔から変わらない。工場からJR常磐線のガード方向に60歩ほど進めば「二の坪東」の交差点で、ガードと平行に走る幅の大きい道が「二の坪通り」である。
「昔の二の坪通りは賑やかだったって聞くねぇ。キャバレーがあって、寄席があって・・・・・・」
一説によると、映画館もあった、という。今は、まるで面影なし。
「うちの斜め前の田中さん(駄菓子屋)の所が、馬小屋だった。小屋の前に馬方がいて、大八車が置いてあった。前の通りを馬が大八車に載せた材木を引いて、ぱかぱかと歩いていたんだから。信じられるかい」
「うちの左隣が鍛冶屋で、とんてんかん、とんてんかん。その角に襤褸(ぼろ)屋があったな。右隣がビニールの合羽屋で、その隣が家庭用の糊屋」