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手は語る−日暮里の町工場を歩く

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へら絞り屋・原岩男さん <5>修行時代(下)
2004年11月18日(木)  阿部清司 あべ・きよし
へら絞り屋・原岩男さん <5>修行時代(下)  仕事は朝8時から。定時は夕方5時半。休憩時間はお昼に1時間と、3時からの30分。残業はほとんど毎日で、大体7時半ごろまで。一日の終わりが近づくと、手を洗うためのお湯を沸かして用意する。兄弟子が帰ってから工場(こうば)の掃除をして、手を洗う。時計を見やると、8時半を回っている。弟弟子が入るまでの数年間、原さんはこの作業を繰り返す日々――。

「最初は1カ月4800円の給料だった。そのうち3000円は、オヤジが強制的に貯金するんです」

 三食は親方の家で世話になった。朝は目玉焼き。昼と夜は魚だった。それに、味噌汁とお新香がつく。

「ご飯のおかわりは自由だったんですけど、お釜が空っぽになっちゃうから2杯くらいまでで止めていた」

「夜の10時ごろになると、どうしても腹が減ってくるんですよ。表の通り(今のあやめ通り)にパン屋があって、その店はここいら辺りの町工場の若い奴(やつ)らのために遅くまでパンを売っていた。たしか値段は10円か15円くらいだったと思うんだけど。私なんかも毎日のようにコッペパンを買ってたから、給料がそれで終わっちゃう」

「近くに安い居酒屋とか、駄菓子屋がもんじゃ屋を兼ねたような店があって、そこが若い衆の溜まり場だった。年中、15人くらいは集まっていたんじゃないの。違う商売でも同じ年頃の人とは、自然と打ち解けて、仲良くなりましたね。ただ、3年(3歳)違うと、お前は俺の言うことを聞けってな感じでしたけど」
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阿部清司 あべ・きよし 建具見習い、時々ルポライター
1974年生まれ。2000年9月に神奈川から谷中へ住まいを移す。いくつかの業界紙・誌の記者職として生計を立て、04年5月からフリーとなったが同年末にあえなく撃沈。05年1月、神奈川に帰り、家業の建具屋の職人に見習い小僧として弟子入り。「谷根千」67号74号78号に「日暮里駄菓子問屋街」の取材記事を寄稿。菓子業界はじめ、さまざまな工場に出かけて職人の話を聞く。
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