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手は語る−日暮里の町工場を歩く

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へら絞り屋・原岩男さん <4>修行時代(上)
2004年11月14日(日)  阿部清司 あべ・きよし
へら絞り屋・原岩男さん <4>修行時代(上)  私は昭和16(1941)年3月に長野県上伊那郡箕輪町松島で生まれました。へら絞り屋になったきっかけは、オヤジ(親方の矢沢さんのこと)と同郷だった縁からです。私の実家は大工で、オヤジさんの実家は建具屋さんでしたから、もともと家どうしが知り合いでした。

 私は男ばかり5人兄弟の4番目で、ふるさとに残る道などなかった。周りの家でも中学を卒業すると伊那から出て行くのが、普通のことでしたね。学校を出たころに親から「矢沢さんが若い人を欲しがっているから、どうだ」と聞かれて、東京に行けるという魅力もあったので、オヤジの所で世話になることにしたんです。

 オヤジの親方は松沢さんという人で、この人も伊那の人でした。何でもへら絞りに関しては初代に近い人だったようで、そんな関係からか、へら絞り屋には伊那からの出身者が多いんです。オヤジの一番弟子の浦野さんも二番弟子の唐沢さんも、やっぱり箕輪町の人ですよ。私が仕事を教わったのは、唐沢さんからでした。

 オヤジや先輩(兄弟子)たちからは、岩男と呼ばれて、オヤジの奥さんからは、岩男ちゃんと呼ばれていました。こっちから、先輩の名前を呼んだ記憶はないですね。弟弟子から先輩に、ああだこうだとは言えなかったからね。

 はじめは先輩たちが絞った品物を削ったり、鉄板を切ったりするのが仕事で、ほとんど雑役と変わらない。2年くらい経ってから、へら棒を持たせてもらえるようになった。難しい品物も含めて、ほとんどの仕事ができるようになるまでには、10年かかりました。
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阿部清司 あべ・きよし 建具見習い、時々ルポライター
1974年生まれ。2000年9月に神奈川から谷中へ住まいを移す。いくつかの業界紙・誌の記者職として生計を立て、04年5月からフリーとなったが同年末にあえなく撃沈。05年1月、神奈川に帰り、家業の建具屋の職人に見習い小僧として弟子入り。「谷根千」67号74号78号に「日暮里駄菓子問屋街」の取材記事を寄稿。菓子業界はじめ、さまざまな工場に出かけて職人の話を聞く。
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