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手は語る−日暮里の町工場を歩く

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へら絞り屋・原岩男さん <3>親方のこと
2004年11月10日(水)  阿部清司 あべ・きよし
へら絞り屋・原岩男さん <3>親方のこと  矢沢亮一という人が親方で、私はオヤジと呼んでいました。オヤジはずいぶんと女性にもてましてね、何でもロシア(旧ソ連)に現地妻がいたくらいですから。
 私が工場長になった頃(一九六〇年)から、以前にはなかったような難しい仕事が増えてきた。オヤジは自分じゃできないから、腕組みして、ああだこおだと言うだけ。昭和四〇(一九六五)年頃からは、ほとんど工場に顔を出さなくなって、民生委員だとか町会の役員だとか、そんなことばかりやってましたよ。
 それでも戦前は、きちんと仕事をしたらしい。戦時に内地の鉄道隊に配属されてから、指示を出すだけの立場になって、そこで変わっちゃった。(敗戦後、捕虜として連行された)ロシアではへら絞りの腕を活かして盥や洗面器なんかをつくったから、優遇されたみたい。そんなわけで、復員後はアカだと疑われて、三カ月ばかり舞鶴の刑務所に入れられたと聞いています。
 オヤジの口癖は「納期を守れ」と「暇でもでんと構えてろ。完璧な仕事をしていれば、注文は来る」の二つ。実際に暇になった時、やはりオヤジはどっしりと構えているんです。仕方がないんで、私が近くの工場へ、何か仕事ないかって聞いて回ったもんですよ。
 別に腹は立ちませんでしたね。その頃の日暮里には似たような親方が結構いましたし、師弟関係なんてそんなもんでしたから。
 オヤジは昭和の終わりに死んじまいました。
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阿部清司 あべ・きよし 建具見習い、時々ルポライター
1974年生まれ。2000年9月に神奈川から谷中へ住まいを移す。いくつかの業界紙・誌の記者職として生計を立て、04年5月からフリーとなったが同年末にあえなく撃沈。05年1月、神奈川に帰り、家業の建具屋の職人に見習い小僧として弟子入り。「谷根千」67号74号78号に「日暮里駄菓子問屋街」の取材記事を寄稿。菓子業界はじめ、さまざまな工場に出かけて職人の話を聞く。
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