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あれやこれやの思い出帖

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45 寛永寺橋の上から蒸汽機関車めがけて
2006年11月17日(金)  坂口和澄 さかぐちわずみ
 寛永寺端の西端に、寛永寺坂と寛永寺橋の由来を記した道標があり、こう記されている。

「大正年間(1912−15)発行の地図からみて、この坂は同十年ころ、新設されたように推察される。当初は鉄道線路を踏み切りで越えていた。現在の跨線橋架設は昭和三年(1928)八月一日。名称は寛永寺橋である。坂の名をとったと考えていい。坂の名は、坂上が寛永寺境内だったのにちなむ。」

 この橋の風情は、1970年代に付けられた野暮なフェンスを除いては、私の子供のころと変わらない。ただ、橋上の歩道の狭さには辟易させられる。二人がすれ違うのが精一杯の幅しかない。
 毎年一回。中秋の満月の日、浄名院で「へちま加持」が行なわれる。喘息の治療に効験あらたかと言われ、遠近から大勢の人が参詣するので、狭い歩道は大混雑。私の次弟は幼いころ喘息を病み、母は毎年弟を連れて祈祷してもらっていた。
 この日、橋の西端や東端の階段下には何軒もの露店が並び、巣鴨の地蔵通り商店街同様、老人向けの下着や飴など売られていた。しかし、十数年前から店が立たなくなってしまったのは、「へちま加持」の効験を知る老人が亡くなり、また核家族化が進んで子供たちに伝える機会を失ったせいもあるだろう。
 さて、この寛永寺橋。
 子供のころ、私は本を読んでいるか、寛永寺橋の上から蒸汽機関車を見に来るか、のどっちかだった。上野方向から来る下り列車は、鶯谷駅あたりから緩やかな上り勾配となって盛んに煙を吹き上げる。あの機関車は白煙を出すか黒煙を出すか、友達と賭けをした。外れたほうはシッペ一つを食う。
 そして機関車があわや橋の下をくぐろうとする瞬間、煙突めがけて「ペッ」と唾を吐く。うまく煙突の中に吸い込まれると「爆弾命中」と叫ぶ。その日の風の強さと方向如何(いかん)で唾を飛ばすタイミングを計るのだが、これはなかなかむずかしく、下手すりゃ「天に唾する」結果となる。
 ある日、石炭の煤(すす)が目に入ってしまった。母は急いで歯をみがくと、舌先を私の目に入れて煤を捜す。「ごらん、こんなの二つ入ってたわよ」と、見事に取り除いてくれた。家内にこれを教え、家内もこの方法を息子たちに用いたが、小学生も高学年になると彼らは嫌がって、これはチョーン。
 橋の両側には横2m、縦1mぐらいの板が線路ごとに取り付けてあった。「遮煙板」といって、橋上の人に煙がかからないようにと考案されたもので、戦前にはなく、戦後に用いられたようだ。上野ー成田間の蒸汽機関車は最後まで残り、千葉の行商のおばさんたち専用として確か1965年まで、一日一往復運転していた。そのため、遮煙板も常磐線上にだけは残されていたが、十数年前、知らぬ間に撤去された。
 余談だが、私はSLという呼び名は嫌いだし、「蒸汽」を「蒸気」と表記するのもいやだ。どうして「汽」を使わないのだろうか。第一、「汽」は「教育漢字」にもあるぞ……と言う私を友人たちは「鶯谷頑固爺」と呼ぶ。
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坂口和澄 さかぐちわずみ 不自由業
1934年台東区根岸生まれ。現在上野桜木町に在住。デザイン仕事のかたわら、中国史を研究。著書に「正史三国志群雄銘銘伝」(光人社)、「三国志群雄録」(徳間文庫)などがある。「谷根千」82号に「根岸だより」を寄稿。
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