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あれやこれやの思い出帖

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1 根岸小学校は痛かった
2006年1月6日(金)  坂口和澄 さかぐちわずみ
 この小学校出身の落語家が、「あたくしゃ『下町の学習院』といわれた小学校を出まして」と高座でしゃべっていた。事実、そう呼ばれていたのを私も知っているが、子供心に「何も学習院を有難がらなくたって」と思った。

 私のこの学校の思い出というと殴られたことである。1942年4月18日、ドッーリットル中佐率いるノース・アメリカンB25、十六機が東京をはじめ各地を爆撃した半年後ぐらいだろうか、宮城に1トン爆弾に耐えられる地下壕が作られている、という噂が子供たちの間にも広がった。

「天皇が神様なら爆弾をよけられるだろうに」
と講堂の前で友達としゃべっていたのを隣のクラスの担任に聞かれ、思いっきり張り倒された。
その教師は戦後四十数年生きて、時々根岸で見かけたが、あの時の御礼はとうとう言わず終いだった。私ゃ礼儀知らずだ。
ちなみに講堂の入り口にハ「八紘一宇(はっこういちう)」と書かれた木製のプロペラが掲げられていた。

 もう一つ。授業中、友だちに「『教育勅語』の『一旦緩急あれば』って間違っているよ」と言ったのを先生に聞かれてしまった。
ヒステリックに「あなたは何ということを」と言う女教師に私はこう言った。
「だって先生、丹下左膳は『寄らば斬るぞ』と言いますが、『寄れば斬るぞ』って言いません」
 女教師は眼鏡のずれを直して教壇に戻り、教室はしーんと静まり返った。
話しかけた友人のN君は、敗戦の年の3月10日の大空襲で亡くなった、と戦後に知った。

 これが祟(たた)ったのか、五年生で縁故疎開するまで、「修身」は優と縁がなく、それは疎開先で卒業した時も同じだった。さては彼奴(きやつめ)、内申書に書いて申し送ったな。
この件で両親が呼び出されなかったのは、彼女が返す言葉に窮したせいか。
丹下左膳を読んでおいてよかった、ありがとう林不忘様。

 この一件を私の子供たちに話すと、彼らは「親父は昔っから可愛げがなかったんだな」と言われた。
そう、三つ子の魂 百までも、今さら可愛らしい爺になりたいとは夢、思わない。
それにしても痛かったな、張り倒された時の拳骨の固さ。
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坂口和澄 さかぐちわずみ 不自由業
1934年台東区根岸生まれ。現在上野桜木町に在住。デザイン仕事のかたわら、中国史を研究。著書に「正史三国志群雄銘銘伝」(光人社)、「三国志群雄録」(徳間文庫)などがある。「谷根千」82号に「根岸だより」を寄稿。
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松尾圭哉2006年1月12日(木) 23時16分
早速、拝見させていただきました。 やねせん82号に載っていた、若かりし頃のお姿・・・ 精悍な感じでかっこいいです!!
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