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あれやこれやの思い出帖

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44  しつこい電話を『軍艦行進曲』で撃退!
2006年11月10日(金)  坂口和澄 さかぐちわずみ
 不忍通りの一つ裏側の仲町通りは私にとって懐かしい場所だ。今はすっかり歓楽街に変わってしまったが、私の大学時代は落ち着いた町並みで、通りには「宝丹」という有名な薬屋さんや、広小路から入って最初の四つ角には「堺屋」という酒屋さんがある。
 その堺屋さんの向かいの角に、大和工業という木工機械販売店があった。ここで私は大学の四年間(1952−1956)、帳簿づけや部品の配達のアルバイトをした。経理にKさんという気さくな姉妹が働いていて、帳簿の貸方、借方の区別もわからぬ私に、実に親切に教えてくれた。
 このKさん姉妹の知人の女性がレイン・コートの月賦販売をやっていたが、なかなか売れないので「坂口さん、時間があったら手伝ってあげて」と姉妹から頼まれた。大学卒の初任給が1万円に届かないこの時代、このコートは確か4千円ぐらいした。今と比べるとべらぼうに繊維品は高い。一度に拂える金額じゃない。そこで月賦がようやく盛んになってきた。通学途中、20番の都電の中から見かけた動坂近くの「杉野」は、時流に乗って月賦販売で大成功を収めた。
 ある日、彼女と一緒に溝の口の工場に行き、昼休みに買ってもらおうとしたが、一枚も売れない。帰り途、涙を流す3歳年上の彼女をどう慰めていいかわからなかった。でも慰めた。どう慰めたかは本項とは関係ないから書かない。
 そのうち、私も売るようになった。十数着を唐草模様の大風呂敷に包んで背負い、電車賃が惜しいので谷中から歩ける範囲の田端、上野、御徒町、秋葉原間の家々を飛び込みで訪問して買ってもらった。マージンは二割、一ヵ月で5着売れたこともある。
 千葉から来る行商のお婆さん、これもごく稀になってしまったが、彼女達を除くと今日この頃、風呂敷を背負って歩く人はさっぱり見かけない。従って「大風呂敷を拡げる」(大言する、ホラを吹く)と言う表現も死語になってしまったかな。
 訪問すると、買ってくれないでもお茶を出してくれる家もあれば、犬ころみたいな扱いをする家もあり、さまざまだ。こんな経験をしたから、訪問販売の人に私は丁寧に応対するように心がけてきた。
 が、その私も商品取引や投資用マンションの購入を勧める連中のしつこい電話には閉口する。彼らは商談が成立しなくても、相手に何分話したかカウントされていて、それも査定に響くそうだ。
 だから、忙しいというのに相手は電話を切らない。ある時、名案を思いつき、電話口でいきなり「守るも攻めるもくろがねの〜」と『軍艦行進曲』を歌い出した。相手が女性の場合は「真白き富士の気高さは〜」と『愛国の花』にする。これは大成功。驚いた相手はガチャンと切る。恐らく私を、彼らの常識から遠くかけ離れた「既知外」の人、と思ったからだろう。これも私の成功例の一つに挙げておく。
 歌に飽きたら、「いろは歌」をお経の節でやるつもりでいる。41からこの回まで読み返すと、「よくもまあ、こんなことばかりやってきた」と更めて自分でも呆れる。やはり「既知外」の人なのだろうか。
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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坂口和澄 さかぐちわずみ 不自由業
1934年台東区根岸生まれ。現在上野桜木町に在住。デザイン仕事のかたわら、中国史を研究。著書に「正史三国志群雄銘銘伝」(光人社)、「三国志群雄録」(徳間文庫)などがある。「谷根千」82号に「根岸だより」を寄稿。
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