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あれやこれやの思い出帖

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40  恩讐の遠い彼方に――焼鶏あれこれ
2006年10月13日(金)  坂口和澄 さかぐちわずみ
 戦前、『笹の雪』の並びに青木鶏肉店があり、そこの長男と私は根岸小学校の同学年だった。戦争が激しくなり、鶏にお目にかかる機会がなくなると、親父さんは身欠き鰊を蒲焼風に焼いて売っていた。私は生(なま)の鰊は駄目だが、身欠き鰊は食べられる。
 親父さんは店先で器用に泥鰌を割いていた。鶏が手に入らなくなってからやり始めたのか、その前からやっていたのか、このあたりの記憶は定かでない。目打ちが打たれた瞬間、泥鰌は「チュッ」と啼く。それが可哀そうだったが、間髪を入れずに捌く職人技の見事さに気を奪われた。ただし、私は柳川鍋も食えない。だから駒形の「どぜう」の店に行ったことがない。
 ちなみに「鰌」は呉音では「ジュ」、漢音では「シュウ」である。「泥鰌」は旧仮名遣いでは「ドヂャウ」であって「ドゼウ」ではない。あのお店ではいつごろから「どぜう」と表記するようになったのか知りたい。
 青木鶏肉店では雀の丸焼きも時々売っていた。頭もくっついていたが、これは旨かった。むしろ鶏よりも旨い。その記憶があったから、父のお供をして和歌山に狩猟に行った時(16参照)、ついでに雀も射ってきた。母は鶏も捌いたから雀を捌くのはお茶の子菜々、何十年ぶりかで丸焼きを味わった。子供たちも大喜び、散弾銃の弾丸を吐き出しながら何羽も食べた。
ところで焼鶏。
 私が推奨する店が三軒ある。第一は根津の鳥勝(電話3821−5177)。焼加減といい、タレといい、絶妙の味だ。ここで買うようになってから三十年くらいになる。善光寺坂を下って不忍通り一つ手前の横丁を右に折れ、最初の四つ角にある。下町ブームを当て込んだ安直な店が町並を乱す中、鳥勝さんだけはいつまでもつづいてほしい。
 第二は国技館の土産に入っている焼鶏。これも旨い。聞くところによると東京場所では国技館の地下で焼いているそうだ。
 第三は「笹の雪」。豆腐を「豆冨」と表記するセンスはいただけないが、ここの焼鶏もお奨めだ。クラス会で二度行ったが、同級生も同意見だった。
そうだ、鶏は鶏でも小綬鶏(こじゅけい)の思い出を書いておこう。私が八年間勤めたキングレコードは音羽の講談社の裏手の小高い丘の上に在った。丘は鬱蒼とした樹木に覆われ、夜になると小綬鶏が集まってくる。
「鳥目というくらいだから、こいつを捕まえて鶏鍋にしよう」と私が発案、よせばいいのに家から笊まで用意して追いかけた。腰を曲げ、藪蚊に刺されるのも何のその、後輩と二人して毎晩30分くらい悪戦苦闘したが徒労に終わり、一週間目に諦めた。
 世に当てにならぬものは「正義」のほかに、「鳥目」というのを付け加えるべきだと、この時に痛感させられた。この丘も首都高速道路のために取り崩されて、今は跡形もない。彼らは護国寺の杜に転居したに違いない。機会があれば会いたい。40数年経てば、恩讐はすでに遠い彼方にあるから。 
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坂口和澄 さかぐちわずみ 不自由業
1934年台東区根岸生まれ。現在上野桜木町に在住。デザイン仕事のかたわら、中国史を研究。著書に「正史三国志群雄銘銘伝」(光人社)、「三国志群雄録」(徳間文庫)などがある。「谷根千」82号に「根岸だより」を寄稿。
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