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あれやこれやの思い出帖

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33  先棒になるか後棒になるか、これが大問題
2006年8月18日(金)  坂口和澄 さかぐちわずみ
 和歌山に疎開して六年間も居着いたことはすでに記した(連載 7 参照)。戦時中の国民学校六年生の時は、若者が戦争に駆り出されて人手がなくなった農家を手伝って、麦踏みや麦刈りをやり、田植え、肥撒き、害虫取り、稲刈りを経験した。下町育ちの子供にとってこれはまったくの未経験の仕事であり、「何でこんなえらい(苦しい)こと、せにゃならんのや」と腹が立った。そう、わずか半年足らずの間に私はすっかり紀州弁でものを考えるようになっていた。
 旧制伊都中学には学校所有の田畑と山林があり、これは新制高校になっても受け継がれた。毎年6月中旬、学校から約6キロ離れた校有林に行き、雑木を伐採し、その中の太めの木を長さ3メートルくらいに切って、縄で学校まで曳いて帰る。乾燥させた後、手ごろな長さに切り揃え、鉈で割って薪にする。これは結構疲れる作業だった。が、この際に草野球用のバットをついでに作った。今の子供たちはナイフで鉛筆も碌に削れないというが、私たちの世代はみな刃物を器用に扱った。
 一番いやだったのは田圃の肥撒き。生徒の排泄物を大きな貯糞槽(って言葉あるかな)に集めてしばらく寝かせ(熟成させ)てから、肥桶に汲み取る。これを「おこ」(天秤棒)に通して二人で担いで素足で田圃に入る。どこの農家でもそうだったが、あの頃はゴム長には滅多にお目にかかれず、ほとんどの人は素足で田圃に入った。
 どっちが先棒になるか後棒になるか、ジャンケンで決める。先棒になればいいが、後棒になると、さあ大変。肥柄酌で汲み取った奴を足許に撒いたその後を歩かなくてはならない。自分のものならまだしも(じゃないな、やっぱり汚い)、他人様のものを踏んでいくのは堪らない。振り返ればあの時のジャンケンほど真剣にやったのは他になかった気がする。付言すると、私は真剣さや正義を売り物にするのは大嫌いだが、この時だけは例外だった。
 家では鶏十数羽を飼っていた。卵を産み落とすと鶏は「コケーコッコッコ、コケーコッコッコ」と啼く。すぐに拾わないと卵をついばむことがある。一度味をしめれば鶏は薄情なもので、「我が子」を食ってしまう。そうさせないために、突つかれるのを警戒しながら鶏小屋に入り込んで、素早く拾い出す。
 葛城山脈を越えて闇屋のおっさんが卵一個15円で買いに来る。彼らはこれを大阪で1個23円から25円で売る。「うちの卵は貝殻食わしとるさかい上等やで。おっちゃん、もう少し高う買うてんか」と、両親がいない時は私が交渉した。「わしらかて警察の目え盗んで商売しとるんや。捕まったらわや(無駄働き)やで。15円にしときや」と言いつつも、20個売ると5円くらい余計にくれた。くれつつ闇屋は「おまはん(お前さん)、ええ商人になるでぇ」と言ったが、その予言はみごとに外れた。外れてこの齢になっても、不自由業に憂身をやつしている毎日だ。予言や占いを信じるものは「阿呆やで」。
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坂口和澄 さかぐちわずみ 不自由業
1934年台東区根岸生まれ。現在上野桜木町に在住。デザイン仕事のかたわら、中国史を研究。著書に「正史三国志群雄銘銘伝」(光人社)、「三国志群雄録」(徳間文庫)などがある。「谷根千」82号に「根岸だより」を寄稿。
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