!新谷根千ねっとはコチラ!

あれやこれやの思い出帖

ゲスト連載の一覧へ   ↑あれやこれやの思い出帖の目次へ   最初  <-前  次->  最新
32  一言も負けたとは言わない見事な措辞
2006年8月11日(金)  坂口和澄 さかぐちわずみ
 不思議なことに、戦争終結の詔書を読み上げる独特の抑揚を持った「天皇」の声は、今なお耳に残っている。そしてその姿を見たのは一九四六年、地方巡幸の「天皇」が和歌山線高野口駅を通過した時だった。旧制中学一年生の私は教師たちに命じられて日の丸の小旗を持って、線路際に整列した。確かサンフランシスコ講和条約(一九五一)が締結されるまで、日の丸の使用は禁じられていたはずだが、多勢の人たちがこれを持って立ち並んでいた。
「天皇」が目の前を通り過ぎたのは数秒間、私は旗を尻のポケットに押し込んだまま、凝然とその姿を見送った。老人の中には手拭いで目を拭く者もいたが、何で泣くのだろうか、私には理解出来なかった。ただ「人間宣言」を俟(ま)つまでもなく、国民学校時代からそう思っていたように、「神」ではないことを更めて認識した。ちなみにこの巡幸は一九五一年まで行なわれ、沖縄を除く全都道府県に及ぶ。
 一九四五年八月十五日、「玉音放送」があった。
 戦争終結の詔書を聞いた人々が、「最後まで戦えということか」「何を意味しているのかよく判らない」と言っていたのは、受信状態の悪さや難しい文語文、それに初めて聞いた「天皇」の声などの理由よりも、よしんば聞き取れたとしても一言も「負けた」とか「降伏する」とか記されていない文章に一番の原因がある。

 ――朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ――

 に始まる全八百十数字の詔書には一言も降伏するとは書かれていない。翌日の新聞を見て、私は上手いものだと感心した。「措辞」という言葉は知らなかったが、「なるほどこう書けば負けたと言わないで済むわけだ」と思い、漢文崩しのメリハリある文体に惹かれてしまった。
 冒頭の「其ノ共同宣言ヲ受諾」で負けたとわかったのは、これより先、七月二十六日、英米支ソ四ヵ国首脳がベルリン郊外のポツダムで会談して、日本の戦後処理方針を検討し、無条件降伏を勧告した宣言、すなわち「ポツダム宣言」の内容が新聞に掲載されていたからだった。
 具体的内容まで箇条書きされていたので、「奴ら、もう勝ったつもりでおるんやな」と憤慨すると同時に、「神州不滅」を叫ぶ軍部がどうしてこんな記事を載せるのを許したのだろうか、という疑問を持った。
 疑問といえばもう一つ。敗戦の半月くらい前だったか、唐突に「皇太子」(現「天皇」)の写真が掲載されたことがあった。十歳や十五歳という節目の年齢ではなかったが、今振り返ってみると、敗戦を前提として、「天皇」の退位もあり得ることを示唆したものではなかったか。

 それはともかく、こうして暑い夏の日は終わり、夜は前夜とは打って変わって家々の灯が明るく点った。紀ノ川対岸の高野山山頂(標高九百メートル)の灯もちらちら見えた。
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
坂口和澄 さかぐちわずみ 不自由業
1934年台東区根岸生まれ。現在上野桜木町に在住。デザイン仕事のかたわら、中国史を研究。著書に「正史三国志群雄銘銘伝」(光人社)、「三国志群雄録」(徳間文庫)などがある。「谷根千」82号に「根岸だより」を寄稿。
ゲスト連載の一覧へ   ↑あれやこれやの思い出帖の目次へ   最初  <-前  次->  最新
ページトップへ