29 ウララクララって誰のこと
未だに一口噺になっているのは亡母のこと。晩年、父と二人してテレビをよく観ていたが、耳が遠くなっていたのだろう、いつも凄い音量だった。その頃は深夜放映がない。今でもそうだが私は夜中一時まで仕事する。仕事を終えて両親の部屋の前を通ると「ザーッザーッ」という音。とっくに放映が終ったのも知らないで眠ってしまったのだ。
テレビを消した途端、母はむっくり起き上がって「あら、あたし観てたのよ」。「あ、そう。じゃおやすみ」と私。次の瞬間、母はもう高鼾(いびき)、それはもう見事なものだった。テツ&トモもこの現象を知っていて「ナンデダロー、ナンデダロー」と悩んでいた。内緒の話だが、このごろ私の家内が姑(しゅうとめ)の轍を踏んでいる。これが老いというものならば、老いは無駄に電力を消費する。
もう50年も昔のことになるかも知れない、まだ小学生の末っ子を連れて、母は浅草で『ジャングルブック』という野生児を主人公にした映画を観に行った。帰ってくると母は目をまんまるくして「驚いたわよ、動物がちゃんと人間の言葉、しゃべるんだもの」。聞いて私は噴き出して、飲みかけの牛乳を鼻から出した。
人の名前もよく間違えた。早死にしたコメディアン八波むと志のことを「ムトーハップ」、宝塚出身の女優遥うららを「ウララクララ」と言っていた。「ムトーハップ」は夏の行水の時、入浴剤として使われたもので、湯に溶かすと独特な匂いがした。まだ売っているだろうか。
ある日、「そういえば昔、よく『ドリノコ』って飲み物の広告、雑誌に出てたわよねえ、憶えているかしら」と言う。それは戦前、雑誌『キング』や、『講談倶楽部』で宣伝していた『ドリコノ』のことだと、すぐピンと来た。
母の問いに答えず、私は自分の鼻を指さして「僕、ドリノコかな」と訊いてみた。母は一瞬きょとんとしたが、「誰の子でもない、あたしたちの子よ」と答えた。そこで私は「ドリノコ」じゃなくいて「ドリコノ」だと訂正した。残念だが、私は「ドリコノ」を飲んだ記憶がない。どなたかご存知の方がいれば教えていただきたい。
♪世の中に 寝るほど楽は なかりけり
浮世の馬鹿は 起きて働く
と母はよく言っていた。
家内は松本の生まれで、七歳で母を亡くして祖母に育てられた。家内はこれを祖母から聞いたという。明治生まれの人たちの間でよく言われていたのだろうか。
もう一つ。母は字が下手で「金釘流」ぴったりだった。口惜しかったのか、「頭のいい人ほど字は下手ね」と言っていた。私も下手だが頭が悪い。どうも母の言葉は信用しないほうがよさそうだ。
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