
制服・制帽姿で通学する大学生は、運動部と応援部以外、今は一人も居まい。私が通っていた1952〜1956年ころは全員が学生服を着、角帽を被っていた。ところが同じ大学なのに、学年で六つ下の次弟の時代は学生服と私服の割合は五分五分、十三下の末弟のころは全員が私服だった。
1952年当時、角帽は千五百円。大学卒の初任給が一万円前後の時代だから、現在の貨幣価値に換算すると三万四、五千円に相当する。貧乏学生には痛い。また、東京六大学野球のリーグ戦には帽子を被って応援せよ、という通達が大学から出されていた。
旧制高校生の弊衣破帽のスタイルは有名だが、弊衣という点では私も負けていない。入学と同時に詰襟の学生服を調達したが、これが本来左にある胸のポケットが右にあるという代物。表が痛んだので、裏返しにして仕立て直した古着である。これを四年間着通した。ズボンの膝の破れは母が繕い、尻の部分はこれも母がハート型に布を当てて繕った。同学年で右の胸ポケットの服を着ていたのは、自慢じゃないが、私一人だけだ。
新入生に見られるのが嫌さに「貫禄をつける」と称して角帽に靴墨を塗って、四隅の角をぺちゃんこにするのが流行した。角帽を被らなくなった現在、その方法は忘れ去られているだろうから、これを書きとめておく。貴重な証言だよ。
まず、ガス火で焙ってラシャの表面のケバ立ちを焼く。そうしてから靴墨を万遍なく塗り、更に卵の白身を刷毛で塗る。これだけだと妙にツルツルして重厚さに欠けるので煙草の灰を落として生地に擦り込む。こうすると角帽の四隅はペチャンコになり、被っても跳ね上がらない。
三年の春休み前まで私は坊主頭だった。入学当時、坊主頭の学生は数十人いたが、いつの間にか髪を伸ばし、三年になると私ともう一人だけが残った。その半年前、拾った金を警察に届けたことがあり、落とし主が現われないで私の手に三百五十円が入ったので、これを機縁に髪を伸ばした。母のバリカンから実に十年ぶりで解放され、床屋さんのバリカンが痛くないことを知って感動した。
さて、学生服。卒業アルバム用の写真を撮ることになると、親友野村巌君が上着を貸してくれた。友人は有難い。あれから五十数年、私は彼の方に足を向けて寝ない。
靴墨を塗ってある角帽で困るのは、雨の日だ。タラーリ、タラーリと黒い滴がしたたり落ちてくることである。お立会い、どなたか血止め、いや滴止めの薬をお持ちでないか。
掲載の写真は1955年に撮ったもの。右は今も親しくしている妹尾信秀君。彼は変人・奇人が多い友人の中で、高森二夫君と並んでまともな人格者だ。手を加えた角帽と加えていない角帽との違いがよく示されているので載せてみた。ただし、オーヴァーを着ているため、右胸のポケットが映っていないのが残念。