２０　別れるの切れるのって、それはマサゴチョウ……/あれやこれやの思い出帖

　貧乏学生だった私は、一九五〇年代、金持ち学生たちが現（うつつ）を抜かした〔と言っちゃ悪いが〕社交ダンス・麻雀・将棋・酒とは一切縁がなかった。強（し）いて趣味と言うならば古本屋めぐり。これはと思う本を見つけると、高価な初版本はパス、同じ本の再版ものを買う。
　いくら綿密に校正しても誤植や事実誤認は避けられないが、再版の時に多くは訂正されるから、この方がいい。
　先日、何年ぶりかで神保町へ行った。賞味期限がとっくに切れている私は、痛む膝を庇（かば）いながら半日過ごした。その時、若い人に「アワジマチはどこでしょうか」と訊ねられた。「ああ、淡路チョウね」と言って教えてあげた。
　二、三十年前、ある民放に出演した人が、飯田町（まち）を「イイダチョウ」と言っていた。地名はむずかしい。訓み方もそうだし、「町」と付けば「チョウ」か「マチ」か、判断しかねる。たまたま私が「イイダマチ」と知っていたのは、浪花節で「人の悪いはイイダマチ」という一節を聴いていたからだ。江戸時代、この辺には御家人（ごけにん・旗本より下の小禄の武士）が多く住み、近くの町人に悪さをしたため、こう言われた。
　一九六四年から六七年にかけて行われた住居表示の変更は、台東区内の由緒ある町名を片っ端から葬り去った。最近、一部の旧町名を復活させる動きがあるが、全て復活してチョーダイ。北上野、東上野、浅草、元浅草、台東何丁目と言われても、どこがどこやら、さっぱり見当もつかん。
　辛うじて今、趣がある地名を残しているのはバスの停留所である。大塚からバスで上野広小路に出た時、停留所の一つに真砂町があった。真砂町といえば泉鏡花の『婦系図』に出て来る真砂町の先生だ。柳橋の芸者お蔦と、元は掏摸（すり）だった早瀬主税の恋を許さなかったのが、主税を更生させたドイツ文学者で真砂町に住む酒井俊蔵センセイ。
　生木を裂かれたお蔦の「別れるの切れるのって、そんな事は芸者の時に言うものよ」の名台詞、水谷八重子はさすがだった。哲学書とは全く無縁な私（⑲参照）はその代わり、こういう話には詳しい。
　『婦系図』をフケイズ、『金色夜叉』をキンイロヨルマタ、永井荷風をナガイニフウと読む学生が現われたのは、何十年前だったっけ。
　そうだ。この際、森まゆみさんにお願いしよう。町名が出て来たら、チョウかマチかルビを付けて戴きたい。それと訓み誤られそうな地名にも。池之端仲町をイケノハシナカマチ、同朋町をドウホウマチ、永住町をエイジュウチョウ、谷中三崎をヤナカミサキと呼ぶ手合いが必ず出て来るから。横書きにした旧中山道をイチニチジュウヤマミチと読んだ女子アナがいることだし。