19 伊勢原在住奇人伝
私は至ってまっとうな人間なのに、大学時代の親友には何故か奇人が多い。その中の一人、Y君を取り上げよう。彼は伊勢原の旧家に生まれ、今なお矍鑠(かくしゃく)たるものがある。農民一揆を題材にした小説を上梓(じょうし)し、あるいは郷土史を研究して地域誌に発表するなど、日々研鑽を怠らぬ見上げた青年(?)だ。
知り合って五十五年になる。若いころから独特のオーラを発して、周囲を煙に巻く。私が最初に煙に巻かれたのは、「坂口よ、お前、哲学書読んだことあるか。田辺元(はじめ)の『哲学概論』知ってるか」と聞かれた時のことだ。
知らないと答えると、一言「読め」と言う。古本屋を探して買い、読んだところが稀代の悪文である。これは山本夏彦老が言う「岩波用語」の最たるもので、一ページ読んで投げ出した。そう伝えると「フーン」と言ったが、どうやら彼は読んでいなかったらしい。親切にも自分が読まない本を教えてくれたのだ。心から感謝した。同時に人生を深く考えなくなった。
Yはクラシック音楽が大好きで、私にも聞けと盛んに勧めたが、私は聞いても良さが判らない。いやだと言うと、「作曲家の名前くらいは知ってるだろ」と、名前を挙げさせた。数人の名の最後にリムスキー・コルサコフと加えたら、実に不思議そうな顔をして、「じゃあ作品は」と訊く。「金鶏」(コックドール)と答えると、驚いて坐り小便せんばかりになったのは、忘れもしない、大学の三号館の入口だった。この「事件」だけは彼も憶えている。
クラシック好きな彼は、その一方で私を歌謡映画『お富さん』や、怪獣映画のハシリだった『ゴジラ』に誘った。その話をしても記憶にないと断言する。
どうやら都合の悪いことはとぼける癖(へき)があるようだ。ある日、彼はしみじみと「坂口、頭がよくないなぁ」と言う。そう言われても、私たちは二十五・二倍の狭き門を曲がりなりにもくぐり抜けている。それを言うと、彼は「倍率なんて当てにならない。有象無象(うぞうむぞう)が受験するからな」と、にべもない。
「じゃあ、誰が有象で誰が無象なんだ」と訊いた。すかさず彼は、「俺のようなのが有象で坂口は無象、わかったか」と言うんだが、わからない。再び煙に巻かれた思いをした。これも彼は言った憶えが全くないと言う。
私たちはちょいちょい夫婦同伴でカラオケをやるが、こんな時、「演歌は嫌い」と言いながら、彼は良い声で朗々と
♪ 旅のつばくろ 寂しかないか……
と歌う。
不思議な人物だ。私ごとき器では計りきれない何かを持っている。こんな彼といつも「言った」「言わない」と争いながら、心中深く彼を尊敬している。彼の正体は横山進クンという。
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