
私の年の離れた母方の従姉の子たち三人と、一九五〇年代の数年間、谷中の某所で一緒に生活した。上の子はトッちゃん、その弟はタボちゃん、いたずら大好きのつわもの揃いだった。私たち兄弟と谷中墓地でいろいろ遊んだ。この写真はそのときの一枚である。
なぜ、こんな写真を撮ったのか。
話は一九四四年夏にさかのぼる。この年の八月、学童の集団疎開が始まり、私たち兄弟は月の初め、当時、塩原温泉福渡(ふくわた)で温泉旅館「礒屋臨江閣」を営んでいた母の次姉のところに縁故疎開した。
塩原の冬は寒い。だから冬休みを長くする代わり、夏休みは八月半ばから始まる。一ヶ月も経たない間に、私の右耳が大きく腫れ、耳の孔から膿が流れ出し、猛烈な痛みに襲われた。部屋でウンウン唸っていると、そこに五歳のトッちゃんと四歳のタボちゃんが「子供が寝てちゃダメだんべ、起きろ」と襲ってきた。しかも一人は鋸を持っている。慌てて私は夏掛け布団を引っ被り「助けてくれーっ」と悲鳴を挙げた。従姉が飛び込んで着てくれたお蔭で、辛うじて鋸挽きの刑は免れた。
こんな酷い外耳炎はとても地元の診療所の手には負えないと言われ、東京に戻って根岸国民学校横の耳鼻科に通院、やっと治った。しかし、また戻る気になれない。鋸が怖い。そのまま翌年三月、和歌山に疎開するまで再び東京に居付いてしまった。
彼らの武勇伝は数限りない。西那須野からバスが登ってくると、二人はその前に大の字に寝て走らせない。かと思えば温泉の湯が流れている町中の溝に、服を着たまま入り込み、首だけ出してみんなに「お出で、お出で」をして笑わせる。
一緒に生活するようになって、その話になった。「和澄さん、またやってみっぺ」とトッちゃん。初め、トッちゃん・タボちゃんをあのころのように並べたが、二人とも丸顔で、図柄として面白くない。「お出で、お出で」をさせても子供のころの可愛らしさが出て来ない。
「和澄さんは馬面だから俺と替わろ」とトッちゃんが言い、「長いのと丸いのとが並んでちょうどいい。ついでに四角いのも入れると面白かんべ」と言って撮ったのがこれである。
場所は芋坂の陸橋のやや南よりの小高い所、国鉄の線路沿い。つまらぬいたずら心で撮ったこの写真の荒川方向を見ていただきたい。不粋な高い建物が一つもなく、広い空がある。先年、同じ場所から同じ方向を見たが、全く様変わりしてしまった。
寛永寺橋から昔は東京球場のナイターの灯りが蒼白く見られたが、こんなにビルが林立した今じゃ、たとい球場があっても見えやしない。つまんないなぁ。なお写真は一九五五年ころ撮影した。左の馬面はもちろん私だ。