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あれやこれやの思い出帖

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11 「プキャテン」料理の仰天
2006年3月17日(金)  坂口和澄 さかぐちわずみ
 いわゆる「業界用語」はテレビを通じてすっかり一般化してしまった。「え、マジで?」などは、十五、六歳の小娘まで連発するが、耳障りである。呆れたことに「耳ざわりがいい」など書いたり言ったりする人間がいるが、私のような老人には非常に目障りだし耳障りだ。ちなみに「マジ」は本来、落語家の間で用いられていた。

 私がレコード業界に入ったのは一九五六年三月のこと。音楽関係者の間では、言葉を逆さにして符牒にした。ただし正確に逆さにするのでないのは、TVCMの「コクヨのヨコク」と同様である。
 ギターを「ターギ」、女性を「ナオン」、金を「ネーカ」というのはよく知られているし、吃驚仰天を「クリビツテンギョー」というのも使われている。

 この業界に入った初め、何のことか見当がつかなかったのは、ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズのジャケット撮影が終った後、ジミー氏に「みんなで『プキャテン料理』食べにいきませんか」と誘われた時だった。
 「え、何料理ですか」
と訊くと、彼らはニヤニヤ笑っている。その答えを聞いて驚いた。朝鮮を引っくり返すと船長、船長はキャプテン、キャプテンをまた引っくり返して「プキャテン」。つまり朝鮮(韓国)料理のことだった。
 私は丁重に断った。大嫌いなのだ、ニンニクが。だから私は焼肉を一度も食べてないし、これからも食べようとは夢、思わない。

 当時、マウンテン・プレイボーイズのメンバーは錚々(そうそう)たるものだった。いかりや長介氏、寺内タケシ氏、ジャイアント吉田氏らが一緒だった。長介氏の一七五センチ以上の身長は当時としては大柄で、脚も長かった。寺内氏は色白の童顔、吉田氏は芸名とは裏腹に小柄な人で、後に小野ヤスシ、猪熊虎五郎両氏ほかと組んでドンキー・カルテットを結成した。「ジャイアント」の芸名は、この時に付けたのかも知れない。
 数字はC(ツェー=1)、D(デー=2)、E(エー=3)、F(エフ=4)、G(ゲー=5)、A(アー=6)、H(ハー=7)、8(オクターヴ=8)、そして9はそのまま「ナイン」を符牒にした。

 レコーディングする時は、歌手と楽団のメンバー二、三十人がスタジオに集められ、歌に合わせて伴奏する。どちらかにミスがあれば何テイクも録りなおすから大変だったが、大体一曲二時間が標準だった。
 一九五〇年代の楽団員の相場は二時間で手取り千五百円。出金伝票を書く際は、「一人ツェーゲーのアー並びですね」と確認していた。アー並びは666、伝票は1666と書き、源泉税10%が引かれて手取り千五百円となる。なお、この頃の大学卒の給料は約一万円強。これに比べて技術を持つ人たちは高収入だった。
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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坂口和澄 さかぐちわずみ 不自由業
1934年台東区根岸生まれ。現在上野桜木町に在住。デザイン仕事のかたわら、中国史を研究。著書に「正史三国志群雄銘銘伝」(光人社)、「三国志群雄録」(徳間文庫)などがある。「谷根千」82号に「根岸だより」を寄稿。
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