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あれやこれやの思い出帖

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8  遊びでは巡洋艦は蚊帳の外
2006年2月24日(金)  坂口和澄 さかぐちわずみ
 これで軍艦特集の最終回。
 戦時中にメンコ、相撲と並んで人気があったのが、「駆逐・水雷」という遊びだった。
二手に別れて戦艦一人、駆逐艦数名、水雷艇数名に役を振り当て、戦艦は駆逐艦に勝ち、駆逐艦は水雷艇に勝ち、水雷艇は戦艦に勝つと決められていた。
自分より強い相手に捕まると、敵陣で手をつないで味方を待ち、タッチしてもらうと復活できる。
ただし、戦艦が捕まるとそのチームの負け。
足が早かった私は戦艦として駆逐艦狩りで戦果を挙げた。
 この遊びで巡洋艦は蚊帳(かや)の外。水雷艇退治は駆逐艦の役目と思われていたからだ。

 巡洋艦には二種類あって二十サンチ砲を装備したのが重巡、十五サンチを装備したのが軽巡と呼ばれた。
ただし大本営発表ではもっぱら甲巡・乙巡と言っている。
ちなみに私が入学したとき(一九四〇年)、通信簿は甲乙丙で成績を著し、二年生から国民学校となって優・良上・良下・可が使われた。
「乙」はその恰好(かっこう)からアヒルと言われ、「可」は「夏の夕方」と呼ばれた。「蚊が多い」という洒落で、私はいつも蚊に刺されていた。

 重巡は山名で名付けられ、加古型四隻、妙高型四隻、高雄型四隻がある。
これに加えて川名を用いた最上型四隻、利根型二隻があるが、ロンドン海軍条約で重巡保有数を十二隻と決められていたため、軽巡として発表され、ひそかに艦砲を二十サンチに付け替えた。
大戦中、このクラスの一艦を空撮した米軍が「重巡だったのか」と驚いた経緯(いきさつ)があったそうだ。

「6.戦中に知っていた大和と武蔵の名」で記したが、開戦一周年の一九四二年十二月八日、各新聞の一面を飾ったのは利根だった。
重巡クラスでなんとか生き残ったのは全十八隻中、妙高と高雄の二隻のみ。
 軽巡は全三十一隻。香取・鹿島・香椎を除いて川名が艦名に用いられた。 
このうち、阿賀野級四隻と大淀は戦時中に竣工し、大淀は連合艦隊最後の旗艦となったが一九四五年七月、呉で大破した。
生き残った北上・鹿島は復員船として用いられ、酒匂は長門とともに一九四六年、ビキニ環礁での原爆実験に供された。

 つけ加えておく。戦艦・空母・重巡・軽巡の艦首には「皇室の十六瓣(べん)の菊のご紋章」がうやうやしく飾られていた。畏れ多い極みである。

 昔は装甲・装備で艦種がはっきり区別されていてわかりやすかったが、近頃の艦種は軍事オタクじゃない私には、空母と潜水艦以外は何がなんだか見当もつかない。

 不思議なのは軍艦・飛行機・戦車など、無機物の塊が一つの形となって現れると、それが有機的な存在となり、「人格」を持つような錯覚に陥ってしまうことだ。
それが何を目的として作られたのか、ということを忘れて──。
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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坂口和澄 さかぐちわずみ 不自由業
1934年台東区根岸生まれ。現在上野桜木町に在住。デザイン仕事のかたわら、中国史を研究。著書に「正史三国志群雄銘銘伝」(光人社)、「三国志群雄録」(徳間文庫)などがある。「谷根千」82号に「根岸だより」を寄稿。
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