!新谷根千ねっとはコチラ!

あれやこれやの思い出帖

ゲスト連載の一覧へ   ↑あれやこれやの思い出帖の目次へ   最初  <-前  次->  最新
6 戦中に知っていた大和と武蔵の名
2006年2月10日(金)  坂口和澄 さかぐちわずみ
 国家の環境問題を憂えて「蠅取りデー」で大活躍した私は、いっぱしの軍国少年だった。
軍国少年の常として、取り分け軍艦に興味を持っていた。今でも「帝国海軍」の戦艦・航空母艦・重巡洋艦・軽巡洋艦の名はすらすら浮かんでくる。
たとい昨夜何を食べたかを忘れてもだ。

 まず戦艦から始めよう。
 戦艦の名は日本の旧国名を用いる(十二隻中八隻)。が、金剛・比叡・榛名・霧島は当初巡洋戦艦(防御力は戦艦よりやや劣る代わり、高速が出せた)として計画されたため、山の名が用いられた。
扶桑・山城は同型艦だが、前者は国名でなく日本の美称を付けているのに違和感を覚えた。
 この後、同型戦艦が二隻ずつ作られるが、その命名にはいろいろ配慮が加えられていた。伊勢は伊勢皇太神宮が所在する国、日向は「天孫降臨」の国。二隻は大戦中に航空戦艦に改造されている。

 そして日本の代表的な大戦艦として広く国民に親しまれていたのが、陸奥と長門である。
本州北端の国名と西端の国名を持つこの両戦艦は、人々に戦艦中の戦艦と信じられ、子供の私でさえ、そう思った。
が、陸奥は広島湾停泊中、火薬庫の爆発で沈没(一九四三年六月)、長門はかろうじて生き残ったものの、敗戦後は原爆実験用艦艇の一隻として接収され、ビキニ環礁で二十五年の生涯を終えた(一九四六年七月)。

 最後は大和(一九四一年竣工)と武蔵(一九四二年竣工)。
これは大和朝廷発祥の地と、明治維新後、天皇が住む地の国名から選んだものであろう。
同型艦として三号艦・四号艦も予定されていたが、もはや、大鑑巨砲主義の時代は去り、三号艦は空母に急遽変更され、信濃と名付けられた(一九四四年)。
空母らしい名が付けられなかったのは、そもそも戦艦として計画されたからであろう。
しかし竣工の十日後、処女航海で被雷、沈没した(一九四四年十一月二十九日)。

 武蔵はシブヤン海で撃沈され(一九四四年十月)、大和は航空機の支援もないまま、沖縄への水上特攻作戦に出撃、乗員三千数百人とともに東シナ海に消えた……。

 父は小さな通信社をやっていた関係で、省庁に出入りする機会が多く、軍人とも知り合いがいたらしい。
父から「日本には世界一の大戦艦、大和・武蔵があるぞ」と聞いたのは、早くも一九四二年の夏だった。
 この年の十二月八日、新聞の一面に艦種・艦名は記されていないが、それまで見たことがない艦橋を持った軍艦の写真が掲載され、「わが新軍艦」云々のコメントが記されていた。
私はこれこそが大和か武蔵だと思ったが、実は重巡利根だと知ったのは遥か後年だった。

 この項と、次号空母以下については光人社の坂梨誠司氏の御教示に多くを負っていることを記しておく。
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
坂口和澄 さかぐちわずみ 不自由業
1934年台東区根岸生まれ。現在上野桜木町に在住。デザイン仕事のかたわら、中国史を研究。著書に「正史三国志群雄銘銘伝」(光人社)、「三国志群雄録」(徳間文庫)などがある。「谷根千」82号に「根岸だより」を寄稿。
ゲスト連載の一覧へ   ↑あれやこれやの思い出帖の目次へ   最初  <-前  次->  最新
ページトップへ