5 生涯たった一つの栄冠
父は物事を斜めから見る癖(へき)があり、大本営発表の成果を聞いても、これを眉唾物だと思っていたらしい。
「ほんまに勝ったんやったら、九州は爆撃されへんやろ」
とは一九四四年の秋、新聞が台湾沖の大勝利を報じて間もなくのことだった。
アブない発言をする父に、母は、
「あなた、滅相(めっそう)もない、人様に聞かれたら大変ですよ」
といい、また私の性格が父に似ていることも心配していた。
「お前は天皇のお写真を切り抜いて学校に持ってくのを嫌がってほんとにもう(『谷中根津千駄木』82号参照)。たまには世間さまのお役に立つことをおやんなさい」
一九四二年初夏の「蠅取りデー」が始まると、母は私にこう言った。
そして「あたしにいい考えがあるから」と、薬局から殺虫剤入りの噴霧器を買ってきた。
当時は水洗便所ではなく、大八車に肥桶を載せた汲み取り屋さんが決まった日にやってきて汲んでくれた。
母方の祖父が糖尿病に罹っていたのをいち早く見つけたのは、汲み取り屋さんだった。
汲み上げた糞尿の匂いが「妙に甘酸っぱい」と言うのである。
これってほんとうだろうか。
この話を聞いて以来、私は毎日じっくりと己(おのれ)の匂いに注意すようになった。
母は噴霧器でシューッと殺虫剤を便所に撒いて戸を閉めた。
一時間後、開けてみるとお見事! 蠅がゴロゴロ落ちているではないか。
割箸で一匹一匹拾い上げ、使用済みの封筒に入れた。これを数回繰り返す。
それが何袋あったか、さすがにもう覚えていない。
覚えてはいないが、これを町会仮事務所に届けると、おじさんたちが驚いた。
仮事務所は豆腐料理屋『笹之雪』の並びにあった。
おじさんたちは割箸で子供たちが持って来た蠅を数え、数の多少に応じて鉛筆をくれる。
私は紙の上の蠅の袋を出すと、おじさんたちは「坊主が一番だ、大人も叶わねえな」とあきれ、
ノート三冊、鉛筆一ダースを私に渡した。
普通は蠅たたきを使って、止った蠅を叩いて取るもので、あのころいくら蠅が多かったとはいえ、百匹取るのは大変だった。
が、私は母の奇策によって、みごと「上根岸町会蠅取りデー」第一位の栄冠を得た。
その嬉しさは、私のプロポーズを家内が承諾したことに継ぐものである。
私が一位の栄冠を得た事実を知るものは、すでに私以外の誰もいない。
湮没(いんぼつ)させるにはあまりにも惜しい話である。ねぇ、そうでしょ。
世のため人のため役立ちたいという殊勝な気持ちのかけらもないこの老人にも、子どものころは国家のために役立ちたいという気持ちがあった。
私は立派な愛国者だぞ!
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