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あれやこれやの思い出帖

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4 「蠅取りデー」なるものが 
2006年1月27日(金)  坂口和澄 さかぐちわずみ
 大学卒業は一九五六年、今では考えられないが、会社に提出する履歴書は、美濃(みの)紙に毛筆で書かなければならず、親の職業も書かされた。そして最後に賞罰の有無を書く。
 ところが私は字のようなものは書けても、字らしい字が書けない。で、一計を案じて親友T君にお手本を書いてもらい、上に紙を敷いてそれをなぞることにした。

 賞罰のところに「どうだろう、俺、たった一回、賞をもらったことがあるんだけど、それ書いてくれるか」と頼んだ。
意外そうな顔をするT君に、一九四二年の初夏、私が住む上根岸町会でやった「町内蠅取りデー」で一位になり、ノート三冊と鉛筆一ダースをもらった話をした。
 しかし、「そんなこと書く必要ない」と断られた。
だから十枚近くなぞった履歴書の賞罰の欄は空白のままだった。惜しい。

 今、思い返してみると、「敵性用語」だという理由で英語が禁止されていた時代、なぜ「蠅取りデー」と言ったのか、不思議だ。
何しろ歌手のディック・ミネが一九四〇年、中国大陸の日本兵慰問の旅から帰ってくると、軍から「外国人めいた芸名は怪(け)しからん」と叱られたレコード会社に、勝手に「三根耕一」と変えられてしまった時代である。

 戦後十数年経って、この件について家族会議を開いた。
会議とは「開く」ものであって「持つ」ものじゃない。
「会議を持つ」とは戦後まもなく、労働組合あたりが使いはじめた言葉で、
「Have a Meeting」の直訳だ。
私は敗戦後、「君が代」と「会議を持つ」は、ただの一度も口にしない。

 さて、蠅取りデー。
 戦前は蠅とネズミの多さに閉口した。魚屋・肉屋・惣菜屋・飲食店。
どこにも「蠅取り紙」が天井から何本も吊り下げられ、ネバネバした上の表面には、真っ黒に蠅がこびりついてもがいていた。
 暑くなる前に駆除しようとして行われたのがこの「蠅取りデー」だった。

 家族会議はカンカンガクガク、「デー」が使われた理由(わけ)は次の二つに絞られた。
(一)衛生問題は天下の一大事(いちでえじ)。
   「蠅取りデエジ」を国民に知らせようと、お上(かみ)が考えた情けない駄洒落(母と弟二人)
(二)「おーい、蠅取りやでぇ」、と呼びかけたのが縮められた。
   起源は関西(父と私)

 遺産の配分で家族会議を開くならともかく、蠅を問題にして開くとは情けない。
だが、これも貧乏人の気楽さだ。落語はこう言っている。

  貧乏の 棒がだんだん 長くなり
   振り回されぬ 年の暮れかな

  貧乏と いえど我が家に 風情あり
   質の流れに 借金の山

  貧乏と いえど下谷の 長者町
   上野の鐘(金)の 唸るのを聞く

 私の生涯で唯一の栄冠は、どうやって手に入れたか。
詳しくは次週に。
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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坂口和澄 さかぐちわずみ 不自由業
1934年台東区根岸生まれ。現在上野桜木町に在住。デザイン仕事のかたわら、中国史を研究。著書に「正史三国志群雄銘銘伝」(光人社)、「三国志群雄録」(徳間文庫)などがある。「谷根千」82号に「根岸だより」を寄稿。
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