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地域雑誌「谷中・根津・千駄木」 28号
未完 みんなで作る林町事典
1991年7月10日(水曜日)発行  350円   在庫切れ -> 品切本複写サービス
28号 未完 みんなで作る林町事典
特集 未完 みんなで作る林町事典

現在の千駄木五丁目と三丁目の一部を昭和三十九年の町名変更前は駒込林町といった。文京区内には小石川林町もあって、よく郵便が間違って届き住民は困った。明治二年以降四十四年まではもっと長く、駒込千駄木林町といった。

千駄木も林町もそう古い地名ではない。古いのは「駒込」だ。子供のころ近所の人に「どうせここらは駒込村の百姓だ。相撲の触太鼓もかねやすまでで帰っちゃうんだ」とよく聞かされた。「駒込」は日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地を通るとき、馬が多いのを見て「駒、込みたり」ちいったからという。

江戸の府内を示す朱印の線は(多少変更されるが)日医大の坂(根津裏門坂)に引かれている。根津の町よりきたは御府内ではなかった。下谷育ちの高村光雲は、林町一五五の自宅から出かけるときには「江戸に行く」といっていたそうだ。

江戸時代の初期に、旧林町の保健所通りより西は東叡山寛永寺持の山林となり、切絵図には「千駄木御林」とか、「日光御門跡下屋敷」と書かれている。NTT文京近くのきれいなまっすぐな道は、これより東が寒松院(かんしょういん)、西は東漸院(とうぜんいん)という寛永寺の塔頭の支配の境を示す道で、切絵図には入口に門のようなものまでかかれている。奇しくもここが現在の東林会、西林会の町会の境でもある。また今の保健所通り(林町の往来)より東は松平備後守、飛前守、板倉摂津守などの屋敷があり明治以降は団子坂上字笠原と呼ばれていた。(表紙を見てね!)

一方千駄木の地名の由来については、
一、寛永寺への護摩の木や入用の薪を一日千駄運び出した。
二、太田道灌がここに栴檀の木を植えた。
三、「千駄木」や「千駄ヶ谷」は雨乞いのための「千駄炊き」から来ているのではないか−柳田国男
などの説がある。延享三年(一七四六)開拓して畑とし、その内に宅地もできて御林跡と呼び、下駒込村に属した。そして明治以降、ここは東京帝国大学の後背住宅地として学者、文化人が多く住む町となってゆく。

噂話でなく実さい見聞きしたことでいい話にしぼりました

取材協力
新井進、田口兼太郎、中川摩耶、三橋榮子
其の28 1991.07.10
林町特集(48p)
高村光太郎「大きな嚏」+解説
不忍池の夏(昭和29年)−写真/上平顕三氏撮影
エッセイ−二本杉原とルンペンたちと少年野球−文/古山茂雄、絵/小林顕一
未完・みんなでつくる林町事典
駒込千駄木林町の図
谷根千ちず
ご近所調査報告−「根津」の文字のある羽黒山碑−金子弘
まちの記憶−「駒込大観音」を仰ぐ−岡田弘
四軒寺町の昔−光源寺住職・島田俊匡
夭折の芸術家補遺−七面坂下の兄、戸張孤雁−山下つねさん
谷中を愛する心−禹歩僊(仙)訣−加藤勝丕
井戸補遺−足元の水を見直そう−井戸水質調査から−秋山真芸実
谷根千井戸地下水分布図−作図/小林顕一
確連房通信
あんな店こんな店−甘味・花家、あづま家
著者自筆広告18−奥本大三郎「ファーブル昆虫記」全8巻・集英社
「上野谷中殺人事件」(内田康夫著・角川文庫)について(50号に補遺)
おたより
千駄木・高村光雲・豊周旧居−剪画/石田良介
編集後記
お知らせ
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谷根千工房・K2008年2月22日(金) 16時36分
28号はしばらく在庫切れになっておりましたが、倉庫の片付けで少しばかりでてきました。
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