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古書ほうろうの 2002年5月の一冊
「東京の下町」 吉村昭 著 / 繪 永田力
「東京の下町」 吉村昭 著 / 繪 永田力
文藝春秋 昭和60年初版 ほうろう価格1500円

 作家吉村昭氏は1927年(昭和2年)日暮里町谷中本(現東日暮里6丁目、日暮里図書館の近く)に9男1女の8男として生まれ、根岸の神愛幼稚園、東京市立日暮里尋常小学校(現ひぐらし小学校)、開成中学校へ通いました。  父親は製綿工場を経営しており、当時としては裕福な家庭であったようです。  中学時代からは、現在の東日暮里5丁目、羽二重団子や善性寺の近くへ越し、1945年の空襲で家を焼失するまでの子供時代を日暮里で過ごしました。  終戦の3年後には、日暮里の家の焼跡に兄が新しく建てた家に戻り、結核におかさ れた身を横たえて、そこからほんの数百メートルにあった庵で半世紀近く前に正岡子規が最期を迎えたことなど考えもせず、自分と同じ病の『病牀六尺』を読み、その一字一句に強く共感したそうです。

 『東京の下町』は、彼が日暮里生まれであることを知る編集者から当時の生活を書くようにと何度もすすめられ、50代後半にさしかかった1983年9月から1985年2月にかけて『オ−ル讀物』に18回にわたって連載されたエッセイで、吉村少年の生活や町の様子が活き活きと描かれています。

 幼稚園くらいまでのほんの数年を根津宮永町で過ごした私の父とは同世代なので、父や祖父母から断片的に聞いていた当時の町のようすと似た記述がいくつかあり、例えばどこかで火事があった時に「ただ今の火事は、××町×丁目××方ァーー」と、火元を知られる声が低い太鼓の音とともに聞こえたことなど、私の頭の中でいくつかの破片だった父の幼い頃のイメージが、かなり具体的に見えてきました。

 少し話は逸れますが、私が幼い頃、祖母がよく私の手を引いてバスの後ろを追いかけては、「はぁーっ、いいニオイだねぇ。」と排気ガスのニオイを胸いっぱい吸い込んでいました。大人になってからそのことを思い出すたび、けがれのない孫を連れてなぜそんなことをしたのかと謎でもあり、可笑しくもありましたが、この本にも同じような描写がありました。当時は自動車が珍しくガソリンの匂いがハイカラな感じがしたそうです。もちろん、私と祖母がバスの後ろで深呼吸していたのは、そのずっと後の高度成長期のことですが、彼女にとってはいつまでもハイカラの匂いだったのかもしれません。と、妙に納得してしまいました。

 話を戻しますが、町の正月、夏祭り、熱中したトンボ採り、ベイゴマ、凧上げ、よく通った映画館、寄席、演芸、大好きな大相撲、近所のちょっと変な人、谷中墓地で見てしまった首吊りなどなど、少年の純粋な目で見たまま、感じたままの、冒険心にあふれていて、大人には見えない世界を、吉村氏の筆が見事に蘇らせています。35頁も挿入されている永田力氏の絵も、さらに読者の少年気分を盛り上げてくれます。  読み終わった瞬間、「ジィーーー」とフィルムの回る音が聞こえてきて、まるで活動写真を一本観終った後みたいな気分になりました。(題字のやや右上がりの細い書体も日本映画のクレジットを彷佛とさせるのかもしれません。)

 現在『東京の下町』は、単行本、文庫本とも品切れで新本での入手はできません。ただし、これまでうちの店にも2、3回は入ってきていますので、 古本でも比較的見つけやすいと思います。もちろん、文京区の図書館ではハードカバー、文庫本とも借りられますし、荒川区の日暮里図書館には「吉村昭コーナー」もあり、僅かですが自筆原稿などの展示品もあります。  今回の一冊は5月3日に店の東京の棚に並べます。

(アオキ) 追記:新潮社『吉村昭自選作品集』別巻の自筆年譜を参考にしました。

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