!新谷根千ねっとはコチラ!

確連坊WEB通信

最新のWEB通信に戻る
2002年1月4日(金曜日)
谷中七福神めぐり
そもそも竹林の七賢など中国では古くから七をおめでたい数としてきました。 西欧でもラッキーセブンというじゃありませんか。
谷中七福神のみなもとはかの有名な東叡山寛永寺をお開きになった天海僧正。
この方が若かりし徳川家康公にお会いになり、天下を治める吉相と見抜かれ、のちに、経典仁王経の七難即滅、七福即生の文に基づいて、「公は長寿、富財、人望、正直、愛敬、威光、大量の七徳を備えたまい、困難な天下統一の大業を果たされ、平和な国土を築かれた。これは七福神の七つの徳全てを兼ね備えたものというべきである」と申し上げた。
家康公大いに喜び、早速狩野探幽を召して七福神の画を描かせ、これが人々に崇敬されたという。
谷根千22号「谷中七福神めぐり」より)

不忍池弁財堂 弁才天
不忍池弁財堂 弁才天不忍池は昔、海だった。退水して池になり、忍岡に対してその名がついた。
寛永元年(一六二四)、徳川家三代の帰依篤い天海僧正は、江戸城の鬼門、艮(うしとら)に当る上野に護国のため寛永寺を創建。比叡山に対して東叡山と称し、不忍池を琵琶湖に見たて、水谷伊勢守勝隆と協力して島を築き、竹生島より弁才天を勧請。
(中略)
明治の神仏分離令のころ、境内入口に鳥居があるからと寛永寺から分離されそうになったが、寛永寺側は弁才天は仏であると、「金光明最勝王経」を根拠に主張、鳥居を撤去するだけで助かったという。
谷根千22号「谷中七福神めぐり」より)

護国院大黒天
護国院大黒天「護国院は寛永寺創建まもなく、天海僧正の片腕で生順という方が、最初は今の鴬谷駅の上に釈迦堂を作ったのがはじまりです。寛永十六年(一六三九)大阪城落成二五周年に両軍の戦死者の回向も当寺で行いました。その後、霊廟(おたまや)をつくるので何度か移動し、宝永六年、ここにあった法恩寺を本所に移して移転してきました。一度火事にあって、今の建物は享保七年のものです。それを昭和二年、市立二中(上野高校)ができるので二、三十間引き屋で移動させたのです。
(中略)
今年九十九歳で入寂した前の住職は大正のころ甲子講(きのえねこう)を復活しようとずいぶん努力しました。一時は東京中に六千人くらい信者さんがいて、甲子の縁日には能舞台に出物もかかり、露店も出ました。いまでも初甲子の日には、このときだけ小判の形の特別なお守りをお頒けしています」
(谷根千22号「谷中七福神めぐり」護国院住職 神田秀順さんの話より)
ページトップへ