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古書ほうろうの 2002年9月の一冊
「隅田川暮色」 芝木好子著
「隅田川暮色」 芝木好子著
文藝春秋 ほうろう価格 700円(函帯 昭和59年8月 4刷)

紅色、朱、濃紫、薄藤、瑠璃色、縹色(はなだいろ)、萌黄、日本にいにしえから伝わるうっとりするような名をもつ色の数々。美しく染め上げられた絹糸を組み合わせ、何本も交差させながら、一本の組紐に仕上げる。  この小説は、そんな組紐という伝統工藝の美しい世界を背景に、二人の男の間で揺れる主人公冴子の感情を押し殺したような日常が、思いもよらぬ人物の登場で急展開していくさまが描かれています。

浅草の呉服問屋に生まれた冴子は、今は本郷弥生町の崖下に暮し、連れ合い悠の実家である湯島天神下の組紐の大店「香月」(こうづき)へ、組み上げた紐を納めて生活の足しにしている。 悠との駆け落ちからすでに十数年の歳月が流れていたが、悠の妻子はいまだ離婚に応じず、冴子は籍を入れることも許されぬまま居心地の悪い生活を送っている。 そんなある日、冴子は「香月」の糸の染めの依頼で、生前父が親しくしていた浅草の紺屋「小磯」を訪れる。記憶の中の風景は空襲で失われ、新しい町に昔の面影は何一つなかったが、「小磯」だけは昔のままだった。小磯元吉も幼馴染みの俊男も、昔と同じように自分を迎えてくれた。隅田川は現在もすぐそこを流れ、職人気質の小磯親子と言葉を交わすうち懐かしさが胸に込み上げてきた。 そして数日後、染め上がった糸を受け取りに、冴子は「小磯」を再び訪ねる。

俊男は次の間から黒塗の衣桁を持ち出してきて立てると、畳紙に包んだきものをひらいた。象牙色の絹の衣がするっと半身を現した。両袖をひらいて衣桁にかけると、象牙色の肩から墨染めの枝垂桜が垂れて、裾には川が流れてい、桜花が散っている。 桜花は大輪の墨色のぼかしで、一輪一輪濃い墨の線で花弁を手描きして、ぼかしのなかはやわらかな薄紅が差してある。冴子は俊男がまだ若い三十代の生身の男で、数えきれない桜花を墨で描き出しているのを、生々しく感じた。墨は男で、桜花の紅は女体に見える。元吉がなにか言っている。冴子には想像すら出来ない男の内側を、覗いた気がした。 「墨染めの桜、すばらしい」 「題は隅田川夜桜、としました」

俊男は紺屋の仕事だけでなく、きものの意匠も手掛けていた。冴子の亡くなった父が道楽で書いていた絵を、俊男も傍で見ていたのだった。子どもの頃のそんな体験が、彼に筆を持たせているのかもしれなかった。 「隅田川夜桜」は冴子の脳裏に焼付いた。 こうして徐々に冴子の中で何かが変わり始める。

芝木好子自身も浅草馬道に呉服商を営む家の出であることが、戦前の浅草や隅田川の様子、そこに生きる人々、そして日本の伝統美の細やかで心のこもった描写に活きています。 天神下から上野に抜ける仲町通りには「道明」という創業350年の組紐の老舗が今もあり、主人公が組む紐や古紐復元に関しては、実際に「道明」の山岡一清氏に教えを請うたとあとがきにあります。 また、二十一歳から二十七歳で結婚するまでの七年間は本郷の祖母の元で暮していたため、冴子と同じように上野の杜をひとり歩き、また時には薮下通りを抜け、いせ辰に千代紙を買いに来たこともあったのでしょう。

読み終わってみて、この小説は冴子を中心に、悠と俊男、「香月」の旧家の息苦しさと「小磯」の気取りのない親しみやすさ、「香月」が取組む厳島組という古代紐の復元に打込む職人たちの意地や活気、自分を待ち続けてくれた父への思い、その父が亡くなった大空襲、 隅田川への深い慕情、そんな幾色もの糸を、晩年の著者が自らの半生とつき合わせながら、見事な「隅田川暮色」という名の組紐に仕上げている、そんな風に感じました。 時に、やりきれない人間模様に少々気が滅入ることもありますが、それ以上に、刻々と変化する隅田川や、組紐やきものの伝統工藝の美しい描写が心に残る作品です。 未読の方は、是非手にしてみてください。新刊の文庫本は本体価格388円で現在も入手可能です。 個人的には布装の単行本をお薦めしますが。

(アオキ)
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